6話登場人物紹介
![]() つむぎ主人公三味線クラブで三味線の修業中 | ![]() はやり つむぎの大親友。ムードメーカー | ![]() りゅうこう 冷静 無口、祖母は三味線弾き | ![]() かける 江戸っ子 男勝り喧嘩早が情に厚い |
![]() 大山象山 三味線界民謡界の伝説の偉人、民謡紙芝居開講 | ![]() ともえ 岩手出身 町会と民謡の会で和太鼓と篠笛担当 | ![]() ひびき 広島出身 町会と民謡の会で和太鼓と篠笛担当 | ![]() すみみだ寺住職 象山と幼馴染み。大人嫌いの象山が唯一心開存在 |
第6話漫画版


























































P0|前回までのあらすじ|津軽の音を知るために
すみみだ小学校四年生のつむぎは、大親友のはやり、三味線男子りゅうこう、老舗三味線屋「しゃみよし」の娘かけるとともに、三味線クラブを立ち上げた。
最初は、音楽室を使うことさえ簡単ではなかった。仲間集めも、先生への相談も、ライバル達とのぶつかり合いも、すべてが初めての連続だった。
それでも四人は、三味線の音に導かれるように進んできた。
そして、初めてのクラブ活動を通して、三味線の構え方、バチの持ち方、糸の鳴らし方を少しずつ覚えたつむぎ達は、津軽三味線の奥深さをもっと知りたいと思うようになっていた。
かける「津軽をやるなら、五大民謡を知っておけ」
かけるのその一言が、日曜日の朝、四人を新しい場所へ向かわせることになる。
P1|しゃみよし店先|津軽五大民謡を聴きに行く
六月上旬、日曜日の午前。午後から暑くなりそうな、明るい朝だった。老舗三味線屋「しゃみよし」の店先に、つむぎ、はやり、りゅうこうが集まっていた。
つむぎは黄色系の夏服に小さなリュック。はやりはピンクの私服に花飾り。りゅうこうは緑のシャツに長ズボン。三人とも、休日らしい軽い服装だった。
つむぎ「かける先輩、今日はどこ行くんですか?」
店の奥から、三味線ケースを背負ったかけるが出てきた。藍色の私服に長ズボン。いつものように目つきは鋭いが、どこか楽しそうでもある。
かける「てめえらに津軽五大民謡を聴かせてやる」
はやり「ごだい……って、ラスボスみたいジャン!?」
はやりが両こぶしを握って、目をきらきらさせる。
りゅうこう「……よされ」
りゅうこうは、ほとんど表情を変えずに一言だけつぶやいた。
かける「津軽やるなら、避けて通れねえ音だ」
かけるは、にやりと笑って歩き出した。
P2|商店街から寺方面へ|暮らしが歌になる
四人は、しゃみよしのある商店街を抜け、すみみだ寺へ向かう道を歩いていた。古い店先ののれんが、朝の風で小さく揺れている。
つむぎ「五大民謡って、五つの曲ってこと?」
つむぎが、かけるの少し後ろからたずねた。
かける「曲って言うより、津軽の暮らしが歌になったようなもんだな」
かけるの言葉に、つむぎは首をかしげる。
はやり「暮らしが歌になるなら、私の朝寝坊も民謡になるジャン!」
はやりは胸を張った。あまりにも堂々としているので、つむぎは一瞬だけ感心しかけた。
かける「しなくていい!」
りゅうこう「……いらない」
二人に同時に切られ、はやりは口をとがらせた。
はやり「ひどいジャン! 朝寝坊にもドラマはあるジャン!」
かける「そのドラマは布団の中に置いてこい」
P3|大山象山|伝説の異人
すみみだ寺へ続く道が見えてきた。かけるは少しだけ歩く速度を落とし、真面目な顔になる。
かける「いま、すみみだ寺に、大山象山ってじいさんが居候してる」
つむぎ「しょうざんさん?」
つむぎは、聞き慣れない名前をゆっくり口の中で転がした。
かける「いまは旅芸人やってるが、三味線界でも民謡界でも、伝説の異人だ」
はやり「伝説!? 益々ラスボスジャン!」
はやりの頭の中では、すでに大山象山が巨大なボスキャラとして立ちはだかっているらしい。
かける「東京に来ると、必ずうちで三味線を直していく」
そう言って、かけるは背中の三味線ケースを軽く叩いた。
つむぎはそのケースを見て、今日の目的がただの見学ではないことに気づいた。
P4|預かっていた三味線|子どもには妙に甘い
寺へ向かう道の途中。かけるは背負っている三味線ケースに目をやった。
かける「こいつは預かってた三味線だ」
かける「今日届けがてら、じいさんに五大民謡を聴かせてもらおうと思ってな」
はやり「なるほど、異人っていうくらいだから大らかジャン!」
はやりは勝手に納得した顔でうなずいた。
かける「すっとこどっこい。偏屈なじじいで弟子は取らねえ。大人には無愛想」
つむぎ「え? じゃあ、会ってくれるかな……」
つむぎの声が少し小さくなる。
せっかくここまで来たのに、会えなかったらどうしよう。そんな不安が、胸の奥にぽつんと落ちた。
かける「てやんでい。あのじじい、子どもには、妙に甘い」
かけるの言葉に、つむぎとはやりの顔がぱっと明るくなった。
P5|町会練習帰り|ともえとひびき
そのころ、別の道では、白とクリーム色の私服を着た二人の少女が、町会の練習帰りに歩いていた。
長い黒髪の少女は、ともえ。篠笛袋を大事そうに持っている。
ベリーショートで健康的な肌艶の少女は、ひびき。肩にはバチ袋をかけていた。
ひびき「今日の太鼓、ぶち鳴ったじゃけん!」
ともえ「んだ。でも、まだ笛の入りが遅れただ」
ひびき「細かいのう。ともえは真面目すぎるんじゃき」
ともえ「真面目にやらないと、音がすぐ逃げるだ。……じぇじぇ!!」
ともえは、思わず出た東北訛りに気づき、頬を赤くした。
ひびき「訛り気にせんでええけん。東北弁好きじゃき」
ともえ「おもさげがんせ」
ひびきは笑った。ともえも、少しだけ安心したように笑い返した。
P6|すみみだ寺・民謡紙芝居|大山象山の貼り紙
道沿いの掲示板に、一枚の貼り紙があった。古い紙芝居台と三味線を持った老人の絵が描かれている。
ともえ「じぇじぇ!! すみみだ寺・民謡紙芝居」
ともえは思わず足を止めた。
ともえ「大山象山さん……本当に来てるだ」
ひびき「知っとるん?」
ともえ「高名な三味線の旅芸人だ。津軽民謡を紙芝居で聞かせるだ」
ともえの声には、いつもの控えめな響きとは違う熱があった。
ひびき「紙芝居で三味線? ぶち面白そうじゃけん、行こうや!」
ひびきはもう、寺の方へ一歩踏み出している。
ともえは掲示板をもう一度見つめ、胸の奥で小さく鳴った三味線の記憶に耳をすませた。
P7|回想・三味線体験会|三味線も、おもしろかっただな
ともえの記憶が、四月の音楽室へ戻っていく。三味線体験会の日。窓の外には桜が咲き、音楽室には初めて見る三味線が何本も並んでいた。
回想|四月・音楽室・三味線体験会
ともえは音楽室の後方に立ち、少し緊張しながら三味線を見ていた。
長い棹。白い胴。三本の糸。篠笛とも太鼓とも違う、見慣れない形。
けれど、その姿には不思議な引力があった。
その時、つむぎが初めて三味線に触れた。
おそるおそる構えた手。少しぎこちないバチ。けれど、つむぎの目はまっすぐだった。
ともえ・心の声「三味線も、おもしろかっただな……」
現在に戻る。ともえは、すみみだ寺へ続く道の途中で、少し遠い目をしていた。
ひびき「ともえ?」
ひびきの声で、ともえははっと顔を上げた。
P8|回想・四月の校門|あのめんこい子、どうしてるだ
ともえの記憶は、さらに別の日へ移る。四月の下校時、校門の前。桜の花びらが舞う中で、つむぎが一枚の募集ポスターを持っていた。
回想|四月下校時・校門にて
つむぎ「あの時、体験にいたよね! 三味線クラブ入らない?」
つむぎはまっすぐだった。少し緊張しているのに、目だけはきらきらしていた。
ともえ「ごめんね。体験楽しかったけど、実際やるとなると敷居が高くて……」
あの時のともえには、篠笛と和太鼓だけで精一杯だった。
三味線に興味はあった。けれど、好きなものを増やすことが、今やっている音を中途半端にしてしまう気がして怖かった。
現在。ともえは、寺の方角を見つめる。
ともえ「今ごろ、あのめんこい子……どうしてるだ」
ひびき「三味線見にいきゃ会えるかもしれんじゃろ。見んさい、寺はすぐそこじゃけん」
ともえ「んだね……行ってみるだ」
二人は、すみみだ寺へ向かって歩き出した。
まだ知らない。そこで待っている音が、ともえとひびき、そしてつむぎ達を、同じ輪の中へ呼び寄せることを。
P9|すみみだ寺|象山を探す住職
すみみだ寺の境内には、日曜日の午前らしい、静かな光が差し込んでいた。六月上旬。午後からは暑くなりそうな空だったが、境内の木陰にはまだ朝の涼しさが残っている。
本堂の前には、古い紙芝居台が置かれていた。何度も開け閉めされた木の扉は角が丸くなり、長い年月を感じさせる。今日はそこで、大山象山の民謡紙芝居が開かれることになっていた。
すみみだ寺の住職は、境内をゆっくり見回しながら、象山の姿を探していた。
住職「象山、どこじゃ。子ども達が来るぞ」
返事はない。
本堂の奥、木々の影が深くなっているあたりで、象山はひとり立っていた。今日はまだ三味線を持っていない。頼んでいた修理三味線は、かけるが届けに来ることになっている。
象山は目を閉じ、鳥の声に耳を澄ませていた。葉の擦れる音、遠くの風、境内の石畳に落ちる小さな音。そのすべてを、まるで楽器のように聴いている。
象山「なんじゃ、せわしないのう。鳥達が逃げるわい」
象山は片目だけを開け、少し不満そうに住職を見た。
住職「おまえさん、昔から変わらんのう」
住職は苦笑した。九十五歳になっても、象山の気難しさと耳の鋭さは、少しも衰えていない。
P10|大人はウンザリ|弟子は取らん
象山の顔には、深い皺が刻まれている。白髪は風にふわりと揺れ、白い眉の下には、いたずらっぽくも鋭い目が光っていた。
住職が近づくと、象山は肩をすくめた。
象山「大人は金、時間の話ばかりでウンザリぢゃ」
そう言って、象山は人差し指を立てた。まるで世の中の騒がしさを、その一本の指で追い払おうとしているようだった。
住職「相変わらず弟子は取らんのか」
住職の問いに、象山は腕を組み、ぷいと横を向いた。
象山「弟子は取らん。わしゃ縛るのも縛られるのも嫌いぢゃ」
その声には、ただの気まぐれではない重みがあった。象山は、長い人生で流派、肩書き、看板、金の話を嫌というほど見てきた。音そのものよりも、音のまわりにまとわりつくものを嫌っていた。
住職「お前とは幼い頃からの付き合いじゃが、その頑固さは全く変わらんわい」
住職は穏やかに笑った。象山も、ほんの少しだけ口の端を上げる。
二人の間には、言葉にしなくても通じる、長い長い時間が流れていた。
P11|象山の若き日|旅先の自然と子ども達
住職の言葉に、象山は遠くを見るような目をした。境内の風が、紙芝居のページをめくるように、彼の記憶を揺らしていく。
回想|約八十年前・若き日の象山
十二歳前後の象山は、小さな体に三味線を背負い、家を飛び出した。九州、四国、関西、関東。港町、山道、祭りの広場、川沿いの宿場。三味線ひとつを頼りに、まだ見ぬ土地へ歩き続けた。
象山・語り「十代で家を飛び出して、三味線ひとつで全国を渡り歩き」
楽な旅ではなかった。腹を空かせた日もある。雨の中で眠った夜もある。それでも象山は、土地ごとの歌、人ごとの声、風の鳴り方を耳に刻み続けた。
回想|五十代・国際ステージ
やがて五十代になった象山は、国内外の舞台で三味線を鳴らすようになった。大きな舞台。まばゆい照明。拍手。表彰。名声。彼の名は、三味線界にも民謡界にも広く知られていった。
象山・語り「五十代の頃には三味線界、民謡界で知らぬものはおらんくらいになったが、オトナの人付き合いに嫌気が差してのう」
人が集まるほど、音のまわりには余計なものも増えていった。肩書き、派閥、金の話。象山の耳には、それがどうにも騒がしく聞こえた。
回想|旅先の子ども達
そんな象山の心を救ったのは、旅先で出会う子ども達だった。
子ども達は、象山の名前など知らない。賞の数も、肩書きも関係ない。ただ三味線の音が鳴れば目を輝かせ、唄が始まれば笑い、時には息を止めて聴いた。
象山・語り「どこの土地へ行っても子ども達は無邪気で、ワシの心を浄化してくれたんぢゃ」
現在の境内に、住職の声が戻ってくる。
住職「以来、弟子も取らず、流派も掲げず、ただ民謡と三味線を子ども達へ渡してきた」
象山は大きくうなずき、胸を張った。
象山「そうぢゃ! わしの師匠は、旅先の自然と子ども達ぢゃ!!」
P12|澄美田寺の入口|じじいではなく象山先生
その時、境内の入口から元気な声が響いた。門には「澄美田寺」と書かれた看板がかかっている。木の看板は朝の日差しを受け、少しだけ明るく見えた。
かける「お〜い。じじい!! 頼まれた三味線持って来たぞ!」
かけるは、藍色の夏服に長ズボン、背中には三味線ケースを背負っている。その後ろから、つむぎ、はやり、りゅうこうも境内へ入ってきた。
はやり「じじいのラスボス民謡、聞きに来たジャン!」
かける「てやんでい! 象山先生と呼びやがれ」
はやり「じじい呼ばわりしてるジャン!」
はやりは頬をふくらませる。つむぎは慌てて二人をなだめようとしたが、象山は怒るどころか、顔を一気にほころばせた。
象山「おお、来たか来たか。ワシのお師匠さん達が」
つむぎ達は、きょとんとした。九十五歳の象山が、子ども達を「お師匠さん」と呼んだのだ。
住職「ほれ、急げ」
象山「こりゃいかん。話し込んでしもうた」
象山は慌てたように立ち上がり、子ども達の方へ歩き出した。
P13|紙芝居台の前|三度目のご縁
紙芝居台の前に、子ども達が輪になって集まった。つむぎ、はやり、りゅうこう、かける。そして、同じ頃に寺へ到着したともえとひびきも、そこにいた。
ともえはつむぎの顔を見た瞬間、少し驚いたように目を見開いた。つむぎもすぐに気づく。
つむぎ「あっ、三味線体験に参加してた……!」
ともえ「じぇじぇ……覚えてくれてただ。また会えて嬉しいだ」
ともえは少し照れくさそうに笑った。四月の体験会、四月の校門、そして今日。三度目の出会いだった。
ひびき「おお、偶然も三回重なればご縁じゃのぉ」
ひびきは明るく笑い、肩にかけたバチ袋をぽんと叩いた。
その横で、かけるは背中の三味線ケースを下ろし、象山の前へ差し出した。
かける「ほらよ、じいさん。代金はどうせまたツケだろ? 今日は客を連れてきたぞ」
象山「いつもすまんのう」
象山は申し訳なさそうに三味線を受け取った。古い手が、三味線の棹をそっと撫でる。その仕草だけで、象山がこの楽器をどれほど大切にしているかが伝わった。
象山「おお、みんなキラキラと良い目をしとるわい」
象山の顔は、まるで宝物を見つけた子どものように輝いていた。
P14|民謡紙芝居の始まり|人の口から口へ渡った五つの唄
象山は紙芝居台の前に立った。子ども達は自然と姿勢を正し、境内の空気も少しだけ静かになったように感じられた。
象山は手にした拍子木を軽く持ち上げる。
象山「さてさて、お立ち会い」
カン、カン。
乾いた拍子木の音が、境内に響いた。つむぎは思わず息を止める。はやりも、いつものように騒がず、目を丸くして紙芝居台を見つめた。
象山「これより語るは、津軽に根を張り、風に乗り、人の口から口へ渡った五つの唄」
紙芝居の扉が開く。そこには、田畑で働く人々、港に集まる船、雪国の家々、祭りの輪が描かれていた。
それはただの絵ではなかった。暮らしそのものが、紙の中で息をしているようだった。
象山「民謡とは、誰か一人の作曲でも作詞でもない」
象山の声は、さっきまでの気難しい老人の声とは少し違っていた。低く、よく通り、聞く者の耳を自然に引き寄せる。
象山「だれかの暮らし、働き、祈り、泣き笑い。その日その場面から自然に生まれた歌じゃ」
つむぎは、紙芝居の中の人々を見つめた。三味線の音を聴く前から、もう胸の奥で何かが鳴り始めていた。
P15|民謡は自由に広がる|伝承と受け取り方
子ども達は静かに聞いていた。境内の鳥の声も、風の音も、象山の語りを邪魔しない。むしろ、紙芝居の一部になっているようだった。
象山「ぢゃから、歌い手が違えば歌詞も歌いまわしも違う。弾き手が違えば音色も違う」
つむぎは、はっとした。
三味線は、正しく同じように弾くものだと思っていた。けれど象山の話を聞いていると、民謡は同じ形に閉じ込めるものではないように思えてくる。
象山は、かけるが届けた三味線をゆっくり構えた。古い三味線の胴が、朝の光を受けて静かに光る。
象山「これよりお届けする民謡は、歌詞も、間も、編成も、わしの自由アレンジぢゃ」
はやり「自由アレンジ!? じゃあ民謡って、何パターンも無限に広がっていくジャン!」
はやりの声が弾む。難しい話のはずなのに、その目はきらきらしていた。
象山「その通り。伝承も自由ならば、受け取り方もお前さん達の自由」
象山は子ども達をゆっくり見回した。
つむぎ。はやり。りゅうこう。かける。ともえ。ひびき。
それぞれの耳が、それぞれの心で、これから鳴る音を待っている。
象山はにやりと笑い、三味線の糸に指を添えた。
津軽五大民謡の紙芝居が、いよいよ始まろうとしていた。
P16|一、津軽じょんがら節|変幻自在の代表格
象山は紙芝居の一枚目をすっと引き出した。そこには、津軽の雪原、遠くに見える山並み、そして人々が集まる舞台が描かれていた。
一、津軽じょんがら節
象山「一つ目、津軽じょんがら節」
その言葉を聞いた瞬間、かけるの表情が少し引き締まった。りゅうこうも、無言のまま目だけを紙芝居に向ける。
象山「津軽三味線と聞いて、多くの者が思い浮かべる代表格じゃ」
つむぎは膝の上で手をぎゅっと握った。代表格。そう聞くだけで、これから始まる音が特別なものに思えた。
象山「一口にじょんがら節といっても、旧節、新節、中節、新旧節、リズムも緩急も千差万別。バリエーションが豊富」
はやりは、すでに頭の中がいっぱいになったような顔をした。
りゅうこう「……変化」
りゅうこうの短い一言に、象山は満足そうにうなずいた。
象山「そして同じ場所に留まらん。変幻自在。それがじょんがらよ」
紙芝居の中の雪景色が、つむぎにはただの絵に見えなくなっていた。吹きつける風、足元の雪、遠くで待つ人々の声まで、そこから聞こえてくる気がした。
P17|二上りと四枚バチ|一番細けえバチ運び
象山は三味線を膝に置き、右手にバチを構えた。甲の角度、指のかかり方、親指の支え。年老いた手とは思えないほど、構えは鋭く、無駄がない。
つむぎは、その手元をじっと見つめた。象山の手は、ただバチを持っているのではない。音を放つ前から、すでに三味線と一体になっているようだった。
象山「調子は二上り。前後バチは四枚バチ中心が特徴ぢゃ」
はやり「四枚バチ? ミツバチの仲間ジャン!?」
はやりが大真面目に言ったので、つむぎは思わず目を丸くした。りゅうこうは、ほんの少しだけ眉を動かす。
かける「てやんでい。三味線の前後バチの種類だ。四枚バチは一番細けえバチ運びだ」
かけるは小さく説明した。口調は荒いが、目はしっかり象山の手元を追っている。
はやり「もう名前から強そうジャン……!」
象山はくつくつと笑った。
象山「強いだけでは鳴らんぞ。細かい音ほど、心が荒れればすぐ乱れる」
その一言で、はやりの背筋がぴんと伸びた。
P18|魂の弾き語り|アー お国自慢のじょんがら節よ
次の瞬間、象山のバチが走った。
空気が裂けるような一打。続いて、細かな糸の震えが境内に広がる。さっきまで鳥の声が聞こえていた静かな場所が、一気に津軽の舞台へ変わった。
子ども達は誰も声を出せなかった。
紙芝居の中では、若い衆が唄い、娘が踊っている。雪を背にした舞台で、人々の足が鳴り、囃子が重なり、稲穂が風に揺れる。
アー お国自慢の じょんがら節よ〜
象山のしゃがれ声は、年老いているのに弱くない。むしろ、長い旅の土ぼこりも、雪の冷たさも、祭りの熱も、そのまま声に混ざっていた。
若い衆唄えば 主の囃子
三味線の音は、ただ伴奏するだけではなかった。唄を押し上げ、踊りを呼び、人の心を前へ前へと走らせていく。
娘踊れば 稲穂も踊る
象山のバチがまた走る。強く、細かく、時に止まり、また跳ねる。境内にいるはずのつむぎ達の目の前に、津軽の景色が何度も何度も立ち上がった。
P19|どんどん景色が変わる|バチの赴くがままに
演奏が一段落しても、つむぎの胸はまだ震えていた。さっきまで座っていたすみみだ寺の境内が、まるで別の場所になってしまったようだった。
つむぎ「同じ曲なのに、どんどん景色が変わる……!」
つむぎの目は大きく開かれていた。速いだけではない。派手なだけでもない。音が進むたび、違う空、違う風、違う人の気配が現れる。
りゅうこうは、無言で象山の手元を見つめていた。
右手のバチ。左手の糸。音が出る一瞬前の間。音が消えた後に残る余韻。りゅうこうは、そのすべてを追っている。
りゅうこう「……同じパートがない」
象山は、にやりと笑った。
象山「自然のごとく、時に激しく、時に静かに。緩急強弱、バチの赴くがままにぢゃ」
つむぎは、象山の言葉を心の中で繰り返した。
自然のごとく。
三味線は、決められた音をただ並べるだけではない。風のように、川のように、人の心のように、形を変えながら流れていくものなのだと、つむぎは初めて感じていた。
P20|民謡の醍醐味|吹いて弾いて打って歌って
じょんがら節の余韻がまだ残る中、最初に声を上げたのは、やはりはやりだった。
はやり「速い! 派手! かっこいい! これやりたいジャン!」
はやりは今にも立ち上がって三味線を弾き始めそうな勢いだった。
かける「てめえにゃまだ無理だ。今やったら指が迷子になる」
はやり「指が迷子!?」
はやりは自分の指を見つめ、少し不安そうに握ったり開いたりした。
ひびき「この三味線に太鼓の早打ちでかけあいしたら、ぶち燃えるじゃろうね」
ひびきの目も、負けないくらい輝いていた。彼女の頭の中では、もう太鼓の皮が鳴っているらしい。
ともえ「じぇ! 笛なら……合間に音色を入れられるだ」
ともえは篠笛袋をそっと抱きしめた。三味線の隙間に、笛の音が風のように入っていく光景を思い描いていた。
象山「集まって一緒に吹いて弾いて打って歌って音に興じる。民謡の醍醐味じゃ」
その言葉に、つむぎははっとした。
三味線だけではない。唄も、太鼓も、笛も、聴く人も、みんなが輪になって音を作る。それが民謡なのだ。
P21|じょんがらの由来|三つの説
はやりは、まだ興奮したまま手を上げた。じょんがら節の迫力に圧倒されながらも、どうしても気になることがあった。
はやり「ところで、じょんがらってどういう意味ジャン?」
象山は待ってましたと言わんばかりに、紙芝居を三枚並べた。
常縁河原説
一枚目には、燃え落ちる城と、激しい川の流れが描かれていた。人々は岸辺で手を合わせ、僧侶の姿が水しぶきの中に浮かんでいる。
象山「戦国時代、浅瀬石城が落城した際、城主の菩提を守るために抗議して川に身を投げた常縁和尚という僧侶がおった」
象山「村人たちがその和尚の霊を慰めるために歌った場所が常縁河原と呼ばれ、それがなまって、じょんから、じょんがらになったとされる説ぢゃ」
つむぎは、紙芝居の川を見つめた。さっきの激しい演奏の奥に、祈りや弔いの気配があるように感じた。
常和楽説
二枚目には、仏像と手を合わせる僧侶が描かれていた。絵の中には、静かな光が満ちている。
象山「もう一つは、仏教用語で常に平穏安楽であることを意味する常和楽から来ているという説ぢゃ」
りゅうこうは、静かな絵をじっと見つめていた。激しいじょんがら節の中に、平穏を願う意味があるかもしれない。その意外さが、彼の耳に残った。
ちょんがれ説
三枚目には、江戸時代の町角で歌う門付け芸人の姿が描かれていた。扇子を持ち、三味線を鳴らし、人々を笑わせながら唄っている。
象山「さらに、江戸時代の門付け芸人が歌った、ちょんがれ節という唄が各地に伝わり、変化したという説もある」
象山「じょんがらの由来には、いろんな説があるんぢゃ」
はやりは腕を組み、うんうんとうなずいた。
はやり「ラスボス民謡、名前の由来まで変幻自在ジャン……!」
象山は声を上げて笑った。
象山「そうぢゃ。民謡は、音も名前も、人から人へ渡るうちに姿を変える。そこが面白いんぢゃよ」
P22|津軽あいや節|北前船で旅した唄
象山は紙芝居の次の一枚を広げた。そこに描かれていたのは、日本地図だった。海には北前船が走り、港から港へと、唄の矢印が伸びている。
象山「九州のハイヤ節が北前船で全国の港に伝わり、各地で発展を遂げたと言われる唄じゃ」
つむぎ達は、紙芝居いっぱいに描かれた地図を見上げた。
津軽だけではない。熊本、新潟、佐渡、南部、広島。海をたどるように、あいや節やハイヤ節の名が、各地に散らばっている。
津軽地方|津軽あいや節
津軽五大民謡の一つ。哀愁を帯びたメロディと複雑なリズムが特徴で、三味線の伴奏とともに広く知られている。
南部地方|南部あいや節
太平洋側の港町、八戸などに伝わり、お座敷唄として発展した。
新潟・佐渡地方|佐渡あいや
日本海ルートで北上した民謡は、新潟県の佐渡や富山でも、それぞれの土地に合わせて変化した。
熊本県天草市|牛深ハイヤ節
あいや節のルーツになったとされる牛深ハイヤ節が、現在も保存・伝承されている。
広島県福山市鞆の浦|鞆の浦アイヤ節
独自の郷土芸能として、鞆の浦アイヤ節が受け継がれている。
つむぎ「へえ……こんなにいろんな場所に伝わっているんだね!」
はやり「唄が船に乗って旅したみたいジャン!」
かける「人が動けば、音も動くってことだ」
りゅうこう「……港の音」
象山はうなずいた。民謡は、土地に閉じ込められたものではない。人に運ばれ、海を渡り、別の土地の暮らしと混ざりながら、姿を変えていくのだった。
P23|津軽あいや節の特徴|溜めて跳ねる難しさ
紙芝居の地図を見終えると、象山は三味線を軽く構え直した。津軽あいや節の説明に入ると、さっきのじょんがら節とはまた違う緊張感が生まれた。
象山「リズムは、溜めて跳ねる。簡単そうで、これが難解」
象山は、指先で拍を取るように小さく間を刻んだ。
すぐに音を出すのではない。いったんこらえ、息をためて、それから跳ねる。その間の取り方だけで、唄の表情が大きく変わる。
ともえ「じぇじぇ、溜めて跳ねる……太鼓でも難しそうだべ」
象山「そうじゃ。太鼓も三味線も、鳴らす前の息が大事ぢゃ」
ともえは篠笛袋を握りながら、うなずいた。笛もまた、音を出す前の息で決まる。象山の言葉は、三味線だけの話ではないと感じていた。
象山「調子は古調、サクラサクラのような音階と、本調子」
象山「本調子とは、完全一の糸に対して、二の糸が完全五度、三の糸が完全八度の響きぢゃ」
つむぎは難しい言葉に少し目を回しそうになったが、かけるが小さく補足した。
かける「細かい理屈はあとでいい。今は、響きの景色が変わるって覚えとけ」
象山「前後バチは三枚バチが中心で、リズムは三拍子」
ひびき「バチ捌きで皮と淵を、ようけ、使いわけるんじゃのぉ」
ひびきの目は、太鼓打ちの目になっていた。三味線のバチ運びを見ながら、自分の太鼓のバチ捌きと重ねている。
象山「ええところに気づいた。打つも弾くも、ただ強く当てればよいわけではない。どこへ、どれだけ、どんな息で入るか。それが音を決めるんじゃ」
P24|五大民謡の前弾き|人々の耳を集める三味線
象山は三味線を膝に置いたまま、子ども達を見回した。津軽あいや節を聴かせる前に、どうしても伝えておきたいことがあるようだった。
象山「三味線は元は、唄や踊りの伴奏楽器として発展してきたが」
つむぎは、象山の手元を見つめた。
伴奏。つまり、誰かの唄や踊りを支える音。けれど、さっきのじょんがら節では、三味線そのものが景色を変えるほどの力を持っていた。
象山「五大民謡では、三味線が前弾き演奏を行い、人々の関心を集めてから唄が入るのが常流ぢゃ」
はやり「前弾きって、始まる前の必殺技みたいジャン!」
かける「まあ、間違っちゃいねえ。客の耳を一気に持っていくところだ」
象山「こんな風にの」
象山が三味線を構えた。
次の瞬間、鋭い一打が境内に響いた。音は風を切り、石畳を走り、子ども達の胸に飛び込んでくる。
象山の演奏は、ただ速いだけではなかった。深く沈み、ぐっと溜め、そこから跳ねる。まるで港に押し寄せる波のように、音が寄せては返していく。
つむぎの目の前に、港町の景色が広がった。
大きな船。帆に受ける風。荷を運ぶ人々。海鳥の声。遠くへ旅立つ者と、港で見送る者。そのすべてが、三味線の前弾きの中に立ち上がっていた。
りゅうこう「……海が、鳴る」
象山は、唄に入る前から、子ども達の耳を完全につかんでいた。
P25|あいや節弾き語り|アイヤーナーーー
前弾きの余韻が残る中、象山はゆっくりと息を吸った。境内の空気が、ほんの少し重くなる。
つむぎ達は、誰も動かなかった。
アイヤーナーーー
象山のしゃがれ声が、三味線の音の上を長く伸びていった。
その声は、港の霧のように広がり、海の風のように遠くへ抜けていく。じょんがら節の激しさとは違う。けれど、静かに胸を揺さぶる力があった。
子ども達の空気が変わった。
はやりの目から、いつもの勢いだけの明るさが消えた。りゅうこうは眉をわずかに寄せ、かけるは黙って象山の手元を見ている。
ともえは、胸の前で手を握った。ひびきも、バチ袋の紐をぎゅっとつかんだ。
アイヤ~~~~~
象山の声が、もう一度伸びる。
唄が聞こえる
津軽の お国の唄が
つむぎは、目を閉じた。
見たことのない海が見える。会ったことのない船乗りの声が聞こえる。遠く離れた土地の唄なのに、なぜか胸の奥に届いてくる。
P26|港の景色|よされ じょんがら ソレモヨイヤ
紙芝居の中では、船乗り、港の人、踊る人々が生き生きと動いているように見えた。荷を担ぐ者、船を見送る者、酒場で手拍子を打つ者。港の一日が、絵の中で音になっていく。
よされ じょんがら
象山の声が、唄の中で別の民謡の名を呼ぶ。
ソレモヨイヤ あいや節
三味線が跳ねる。けれど、その跳ね方には、どこか哀愁があった。明るいだけではない。悲しいだけでもない。海を越え、土地を越え、人から人へ渡ってきた唄だからこそ、いろいろな感情が混ざっている。
はやり「ふ、船乗りと港、海が見えるジャン!」
はやりは目を輝かせていた。まるで紙芝居の中へ飛び込んでしまいそうな勢いだった。
つむぎ「わかる。なんだか哀愁あるけど、とてもチカラ強い」
つむぎの頬には、涙が一筋流れていた。自分でも、どうして涙が出たのかわからない。
でも、わからないままでもよかった。象山の音は、頭で理解するより先に、胸の奥へ届いていた。
象山「あいやは、海を渡った唄じゃ。別れも出会いも、働く声も、港のざわめきも、みな一緒に運んできたんじゃよ」
P27|訛りは土地の音|かけるの涙
あいや節の余韻が、まだ境内に残っていた。ともえは胸に手を当てたまま、しばらく言葉を失っていた。
ともえ「あいや〜、胸がざわざわするだっぺ」
口に出した瞬間、ともえははっとして、自分の口を手で押さえた。
ともえ「じぇじぇ、東北弁が自然と出るだ」
恥ずかしそうにうつむくともえに、象山は優しく笑った。
象山「訛りは恥ではない。その土地の音じゃ」
ともえは顔を上げた。
その言葉は、ともえの胸にすっと入ってきた。標準語で話そうとしても、感情がこもると出てしまう東北の言葉。それは隠すものではなく、自分の中にある土地の音なのだと、初めて思えた。
はやり「シャビ? かける先輩も泣いてるジャン!」
はやりの声に、全員の視線がかけるへ向いた。
かけるは慌てて目元をぬぐった。確かに、少しだけ涙がにじんでいる。
かける「てやんでい! じじいが変な唄聴かせるから、目にゴミがへえっただけでい!」
かけるはそっぽを向いた。
けれど、誰もそれを本気にはしなかった。象山のあいや節は、かけるの中にある何かにも、確かに触れていた。
象山「ほほう。目に入るゴミまで、ええ音を聴くようになったか」
かける「うるせえ!」
境内に、小さな笑いが広がった。
P28|津軽おはら節の由来|全国へ広がったおはら節
あいや節の余韻が境内に残る中、象山は次の紙芝居をゆっくりと引き出した。そこには、日本地図と、各地へ伸びていく唄の道筋が描かれていた。
象山「おはら節は、江戸時代に生まれた宮崎県都城市の安久節がルーツとされ、全国の各地に伝わり、独自の発展を遂げたのぢゃ」
紙芝居の中では、南の土地から北へ向かって、唄の道が伸びていた。港、山あい、城下町、祭りの広場。それぞれの土地に渡った唄が、少しずつ姿を変えていく。
鹿児島おはら節
おはら節の代表格。鹿児島市のおはら祭で知られ、陽気でテンポが良いのが特徴ぢゃ。
越中おわら節
富山県富山市、八尾町に伝わる民謡。哀愁を帯びた美しい旋律で、毎年九月に行われる「おわら風の盆」が有名ぢゃ。
津軽小原節
青森県に伝わる津軽民謡の一つ。三味線の伴奏が特徴的な、高度な技術を要する楽曲ぢゃ。
秋田小原節
秋田県に伝わる民謡で、細手という繊細な伴奏と、太手という力強い伴奏の二種類の伴奏形態があるのが珍しい特徴ぢゃ。
塩釜おはら
宮城県塩釜市周辺で歌い継がれているおはら節ぢゃ。
つむぎ「おはら節も、いろんな場所に広がっていったんだね」
はやり「民謡って、旅好きジャン!」
象山「そうぢゃ。唄は人に運ばれる。人の暮らしに出会うたび、土地の色に染まっていくんじゃよ」
つむぎは地図を見つめた。民謡は一つの場所に閉じ込められた音ではない。人が動けば、唄も動く。唄が動けば、新しい土地の心と混ざり合うのだった。
P29|津軽おはら節の特徴|人生の機微
象山は、紙芝居の次の絵を見せた。そこには、りんご畑、遠くの山、夕暮れの空が描かれていた。赤く実ったりんごが、静かな風に揺れている。
象山「三つ目、津軽おはら節」
じょんがら節の激しさとも、あいや節の港のざわめきとも違う。紙芝居の中の景色は、どこか穏やかで、少し寂しげだった。
象山「哀愁を帯びたメロディ。自然や人生の機微を語る唄じゃ」
つむぎ「人生のきび……?」
つむぎは首をかしげた。言葉の意味はわかりそうで、まだはっきりとはつかめない。
はやり「きびんおやびんハゲちゃびんジャン!」
はやりは得意げに人差し指を立てた。なぜか完全に言い切った顔をしている。
かける「表面だけでは容易に知ることのできない、微妙な感情の動きや物事の趣、事情のことでい」
すかさず、かけるが切り込んだ。
はやり「説明が国語辞典ジャン……!」
象山「ほほう。かける、お前さんも少しは機微がわかるようになったかのう」
かける「うるせえ。言葉の意味くらい知ってるだけでい」
つむぎは、もう一度りんご畑の絵を見た。明るい夕暮れなのに、なぜか胸が少しだけきゅっとする。その感じこそが、もしかすると「機微」なのかもしれなかった。
P30|本調子と二枚バチ|基本ほど深い
象山は三味線を軽く抱え直し、おはら節の特徴を続けた。境内の空気は、さっきまでの熱気から少し落ち着き、静かに耳を澄ませる雰囲気へ変わっていた。
象山「リズムは軽快な二拍子。調子は本調子」
象山は、指で二つの拍を示すように、小さく膝を叩いた。軽い。けれど、軽すぎない。まっすぐ進むようで、どこか余韻を残す拍だった。
象山「前後バチは二枚バチ中心」
二枚バチ。じょんがら節の四枚バチ、あいや節の三枚バチと比べると、ずっとシンプルに聞こえる。
つむぎ「本調子って、前に少し聞いたやつ?」
かける「そうだ。三味線の基本の調子だ」
かけるの声はいつもより少し落ち着いていた。基本という言葉に、つむぎは少し安心しかける。
象山「基本ほど、深い」
その一言で、つむぎの背筋が伸びた。
基本だから簡単、ではない。基本だからこそ、ごまかしがきかない。象山の声には、そんな重みがあった。
りゅうこう「……基本は、逃げられない」
象山「ええことを言う。音も人も、根っこが見える時ほど怖いもんじゃ」
P31|津軽おはら節の前弾き|三本の糸を流れる右手
象山は、いよいよ津軽おはら節の前弾きに入った。右手のバチが、三本の糸の上を流れるように動く。
鋭く叩きつけるのではなく、糸をなで、すくい、押し出し、また返す。象山の右手は、まるで水の流れを操っているようだった。
左手は棹の上を鮮やかに移動する。指が糸を押さえるたび、音の色が少しずつ変わっていく。つむぎには、その動きがまるで絵筆のように見えた。
象山の表情は、全集中だった。
笑っているようにも、泣いているようにも見える。けれど目は閉じられ、耳は三味線の奥へ深く潜っている。
軽快な二拍子が、境内に広がる。
最初に手拍子を始めたのは、はやりだった。すぐにつむぎが続く。ひびきは太鼓打ちらしく、拍の芯を探しながら手を叩く。ともえは、そっと息を合わせるように手拍子を入れた。
象山「そりゃ! ノッてきたぞい!」
象山の声に、子ども達の顔がぱっと明るくなった。
三味線の前弾きに、手拍子が加わる。聴いているだけだった子ども達が、少しずつ音の輪の中へ入っていく。
P32|津軽おはら節の唄|りんご畑を吹き抜ける風
紙芝居の中のりんご畑が、風に揺れているように見えた。夕暮れの山、赤いりんご、遠くへ伸びる畑の道。そこへ象山の唄声が重なった。
サーサ ダシタガヨイヤー
象山の声は、じょんがら節のように荒々しくはない。あいや節のように海を渡るざわめきとも違う。もっと身近で、暮らしのすぐそばにある声だった。
マタモ ダシタガヨイヤー
軽快な二拍子の中に、少しだけ胸を締めつけるような響きが混ざる。明るいのに寂しい。寂しいのに、どこか温かい。
アー津軽りんごと オハラ 名高い
その瞬間、つむぎ達の身体を、風が吹き抜けていくような感覚があった。
つむぎの髪がふわりと揺れ、はやりの花飾りが小さく震える。りゅうこうは目を閉じ、かけるは腕を組んだまま黙って聴いている。
ともえは、篠笛の音を重ねるならどこだろうと想像していた。ひびきは、太鼓を強く打つのではなく、そっと支える拍を思い浮かべていた。
つむぎ「りんご畑の風が……見える気がする」
象山「それでええ。民謡は、景色ごと聴くもんじゃ」
P33|シンプルだから難しい|三味線だけが取り柄
津軽おはら節の演奏が終わると、境内にはやわらかな余韻が残った。派手な終わり方ではないのに、音はなかなか消えなかった。
象山「二枚バチでシンプルだが、微妙な溜めやハネ具合も表現が難しい」
象山はバチを膝の上に置き、子ども達を見た。
りゅうこう「シンプルだけに……一番むずかしいかも」
りゅうこうは、まだ象山の手元を見つめていた。音の数が少ないからこそ、一つ一つの音が目立つ。少しのズレも、すぐにわかってしまう。
はやり「じじいが弾くと、三味線が活きてるみたいだったジャン」
はやりは素直に感動していた。さっきまでの冗談っぽい顔ではなく、本当に三味線が生き物のように感じたらしい。
かける「あったりめえだ。このじじいは三味線だけが取り柄なんだからよ」
かけるはいつもの調子で言ったが、その声には少しだけ誇らしさが混ざっていた。
象山「おっと! お前さん達にかかれば、この象山もかたなしじゃな」
象山は大げさに肩をすくめた。
はやり「でも本当にすごかったジャン!」
ともえ「んだ。派手じゃないのに、胸の奥に残る音だっただ」
ひびき「ぶち不思議じゃのう。軽いのに、重たい」
象山はうれしそうに目を細めた。
象山「軽い音の中に重みを入れる。それができたら、民謡は一生飽きんぞい」
つむぎは、静かにうなずいた。津軽五大民謡は、知れば知るほど、ただの曲名ではなくなっていく。そこには、暮らしも、土地も、人の心も入っているのだった。
P34|よされの意味|世を去れ、仕事をよして楽しみなされ、夜さり
津軽おはら節の余韻が消えると、象山は紙芝居台の奥から、また別の絵を取り出した。そこには「よされ節」と大きく書かれ、祭りの灯り、農村の暮らし、夜の寺の風景が重なって描かれていた。
象山「よされは、主に青森県の津軽・南部地方から新潟県にかけて伝わる民謡、よされ節の囃子詞や曲名ぢゃ」
象山「語源には諸説あるが、主に世の中の憂さを晴らす願いや、人々が集まることに由来するとされておる」
つむぎは、紙芝居に描かれた人々を見つめた。厳しい表情で田畑に立つ人、祭りで笑う人、夜の道を歩く人。どれも同じ「よされ」という言葉へつながっているようだった。
世去れ
凶作や貧困に苦しむ人々が、「このような辛い世の中は早く去ってくれ」という祈りや願いを込めたとする説。
仕事をよして楽しみなされ
豊作で楽しい時には、「仕事をひとまず休んで楽しみなさい」という意味に転じたとされる説。
夜さり
日が暮れるころ、夜になるころを意味する古語「夜さる」の命令形に由来するという説。
はやり「同じよされなのに、つらい願いにも、お祭りにも、夜にもつながるジャン……!」
りゅうこう「……言葉も変化する」
象山「そうぢゃ。民謡は音だけでなく、言葉も人の暮らしと一緒に揺れ動くんじゃよ」
P35|よされ節の広がり|津軽・黒石・南部・北海
象山は、紙芝居をさらに大きく開いた。そこには、東北から北海道へ伸びる唄の道と、各地の踊りや祭りの様子が描かれていた。
象山「よされ節は東北地方を中心に伝わる代表的な民謡で、主に津軽よされ節、黒石よされ節、南部よしゃれ節、北海よされ節の四種類に分類されるぞい」
一、津軽よされ節
青森県に伝わる津軽五大民謡の一つに数えられる代表的な民謡。哀愁を帯びたメロディと、津軽三味線の力強くリズミカルな伴奏が特徴。
二、黒石よされ
青森県黒石市に伝わる伝統的な祭り唄。日本三大流し踊りや、青森三大ねぶた・盆踊りとして知られる。大勢で町を練り歩く流し踊り、輪になって観客も巻き込む廻り踊り、三味線や太鼓に合わせて手踊りを披露する組踊りがある。
三、南部よしゃれ節
岩手県・青森県南部地方に伝わる民謡。「よしゃれ」という囃子言葉で親しまれ、岩手県の南部牛追唄などと並ぶ代表的な民謡。南部地方から津軽地方へ伝わり、各地で独自の節回しへと変化した。
四、北海よされ節
北海道開拓の歴史の中で、津軽など東北地方から渡った人々によって持ち込まれた盆踊り唄。現在でも道内の多くの地域で愛唱され、踊り継がれている。
ともえ「んだ……よされにも、土地ごとの顔があるだな」
ひびき「踊りも太鼓も入っとるんじゃね。ぶち血が騒ぐじゃけん!」
象山「それぞれの地域の暮らしや想いが込められた、大切な唄ぢゃよ」
つむぎは、紙芝居の中で踊る人々を見つめた。よされ節は、ただ聴くためだけの唄ではない。人が集まり、足を鳴らし、手を叩き、輪になって受け継いできた音なのだ。
P36|津軽よされ節の特徴|溜めて跳ねる三拍子
象山は三味線を抱え直し、今度はよされ節のリズムを指で示した。紙芝居の横には、拍の流れを表す小さな図が掲げられている。
象山「リズムは、ターンチッキ、タンタチッキなど、溜めて跳ねる三拍子」
象山の指が、宙に見えない拍を描く。すぐに進まず、いったん溜める。そして次の瞬間、軽く跳ねる。その独特の間に、子ども達は思わず身体を揺らした。
象山「調子は古調。サクラサクラなどと同じ音階と、二上り」
象山「二上りは、一の糸に対して二の糸が完全五度、三の糸が完全八度の響きぢゃ」
象山「前後バチは三枚バチ中心」
はやりは指で数えようとしたが、二上り、三拍子、三枚バチが頭の中でぐるぐる回り、少しだけ目を回した。
はやり「三がいっぱいで、さんざんジャン……!」
かける「そこで混乱してるようじゃ、まだ早えな」
象山「ここで前弾きの拍手ポイントを伝授しよう」
子ども達の顔が一斉に上がった。
象山「繰り返しフレーズや、凄いと思ったら遠慮なく拍手ぢゃ。弾き手もノッて、演奏がよりエキサイトするぞい」
ひびき「ほうじゃ、太鼓も客席の反応で燃えるけん!」
ともえ「聴く側も、音を育てるんだな……」
象山は満足そうにうなずいた。民謡は、演奏者だけで完結する音ではない。聴く人の拍手や声も、同じ輪の中に入っていくのだった。
P37|津軽よされ節の前弾き|ハッ! 音の波動が突き抜ける
象山は三味線を構えた。次の瞬間、九十五歳とは思えない芯のある掛け声が、寺の紙芝居広場に響き渡った。
ハッ!
パン! パン! パン!!
腹に響く太い三味線の音が、石畳を震わせ、お寺いっぱいに広がった。
つむぎ達の身体を、幾層もの音の波動が突き抜けていく。胸の奥がズンズンと鳴り、座っているはずなのに、足元から音に持ち上げられるようだった。
しかし、象山の音はそこで急に姿を変えた。
太く重い響きから、リズミカルで高く、繊細な音色へ。鋭く打ち込む音と、糸を軽く跳ねさせる音が、まるで会話するように行き来する。
つむぎ「すごい……同じ三味線なのに、音の色が変わった」
つむぎ達は、思わずうっとりと聞き惚れた。
ハイ~~~~~!
象山の掛け声と同時に、右手のバチが激しく走る。糸を弾き、皮を打ち込み、また糸へ戻る。残像が残るほどの速さで、音が渦になって境内を駆け抜けた。
りゅうこう「……音が、跳ねてる」
かける「これが、よされの前弾きだ」
P38|津軽よされ節の熱唱|アー調子替わりのよされ節
前弾きが一区切りついた瞬間、つむぎ達は思わず立ち上がった。惜しみない拍手が境内に響く。
象山はその拍手を受け、にやりと笑った。
そして、三味線を大きく鳴り響かせる。
ジャジャジャジャーン!
音が空へ舞い上がった。境内の木々の葉が震え、紙芝居台の中の絵まで揺れて見える。
アー調子替わりのよされ節
象山のしゃがれ声が、三味線の上に乗った。かすれているのに、弱くない。長い旅の道、雨の日の宿場、祭りの夜、雪の朝。そのすべてが声の中に混ざっている。
つむぎ達は大興奮で手拍子を始めた。さっき象山に教わった通り、繰り返しのフレーズで遠慮なく拍手を入れる。
はやり「ここジャン! 拍手ポイントここジャン!」
ひびき「ぶちノッてきたじゃけん!」
ヨサレソラヨイヤー
象山は魂を込めて熱唱した。歌声は、ただ大きいだけではない。祈るようで、笑うようで、どこか泣いているようでもある。
ともえ「あいや……胸にくるだ」
つむぎ「楽しいのに、泣きそうになる……」
よされ節は、子ども達の身体を熱くしながら、同時に胸の奥を静かに震わせていた。
P39|右も左もよされ節|鳥達も一緒にさえずる
象山の熱唱は、さらに勢いを増していった。境内の空気が、すっかりよされ節の渦に包まれている。
右も左も よされ節
象山の声に合わせるように、木々がざわめいた。葉がこすれ合い、風が枝を抜ける。その音まで、よされ節の囃子になっていく。
やがて、鳥達が一緒にさえずり始めた。
チュン、チュン。高く短い声が、三味線の隙間に入ってくる。象山はそれを邪魔だとは思わない。むしろ、待っていたと言わんばかりに笑った。
象山「ほれ、鳥の衆も入ってきたわい」
りゅうこう「……自然の合奏」
ヨサレソラヨイヤー
象山は魂を込めて最後の一節を歌い上げた。三味線の音、しゃがれ声、手拍子、木々のざわめき、鳥の声。そのすべてが重なり、すみみだ寺の境内を一つの大きな音の輪に変えていた。
音が止まった。
ほんの一瞬、誰も動けなかった。
次の瞬間、割れんばかりの拍手が起こった。
つむぎ、はやり、りゅうこう、かける、ともえ、ひびき。全員が立ち上がり、夢中で手を叩いている。
はやり「すごい! すごいジャン! 寺ごと民謡になったジャン!」
つむぎ「五大民謡って、曲を覚えるだけじゃないんだね……」
象山「そうぢゃ。人も、土地も、風も、鳥も、みんな音になる。それが民謡ぢゃ」
つむぎは、胸の奥で何かが大きく動いたのを感じた。
三味線を弾くということは、ただ楽器を鳴らすことではない。誰かの暮らしを、土地の記憶を、自分の心で受け取ることなのだ。
P40|津軽三下がりの由来|物悲しく美しい響き
よされ節の熱気がまだ境内に残っていた。拍手の余韻が消えきらぬ中、象山は紙芝居台の奥から、静かな色合いの一枚を取り出した。
そこには、山道を進む馬子、夕暮れの山、そしてお座敷で静かに唄う人々の姿が描かれていた。さっきまでの祭りの熱とは違う。空気が少し低く、深く沈んでいく。
象山「津軽民謡の中でも最も哀調を帯びた、格式高く奥行きのある名曲として知られておる」
つむぎは、紙芝居の色が急に静かになったことに気づいた。楽しさや勢いだけではない。これから語られる唄には、別の深さがあるようだった。
象山「元々は、馬を引く時に歌われた馬子唄が変化し、お座敷唄として発展したと言われる」
紙芝居の中の馬子は、山道をゆっくり進んでいる。人の声が山に響き、馬の足音が地面に沈み、その音が遠くへ伸びていく。
象山「左手の指先で、糸を棹の先から根本までギュインと激しくこする。スリ上げ、スリ下げなど、独特な奏法を用いるんぢゃ」
象山は左手を棹に添え、ゆっくりと指を滑らせる動きを見せた。それだけで、つむぎ達は息をのんだ。まだ音は出ていないのに、もう何かが鳴りそうだった。
象山「津軽五大民謡、じょんがら節、よされ節、小原節、あいや節、三下がりの中で、唯一、三下がりという調弦で演奏する」
象山「通常の本調子から三番目の弦、細い弦を一音下げるため、独特の陰を帯びた、物悲しく美しい響きが生まれるんぢゃ」
かけるは黙ってうなずいた。りゅうこうは、象山の左手だけを見つめている。はやりも、さすがに茶化さなかった。
つむぎ「一音下げるだけで、そんなに景色が変わるんですか?」
象山「変わる。たった一音で、心の空の色まで変わるんぢゃ」
その言葉に、つむぎは胸の奥が静かに震えるのを感じた。
P41|津軽三下がりの特徴|溜めて跳ねる三拍子
象山は三味線を抱え直した。さっきまでの笑みは少し薄れ、顔つきが研ぎ澄まされていく。
象山「リズムは、溜めて跳ねる。タンタチッキ、ターンチッキといった三拍子」
象山は、膝の上で小さく拍を刻んだ。すぐに跳ねるのではなく、いったん音を胸の奥で待たせる。そして、次の瞬間に跳ねる。その間が、三下がりの空気を作っていた。
象山「前後バチは三枚バチ中心」
はやりは口を開きかけたが、何も言わなかった。三枚バチ、三拍子、三下がり。いつもなら「三だらけジャン!」と言うところだが、象山のまとう空気がそれを止めていた。
象山は、右手に持ったバチをゆっくりと高く掲げた。
その瞬間、境内の空気が張りつめた。
風の音が消えたように感じた。鳥の声も遠のく。つむぎ達は、自然と息を止めていた。
象山の目は鋭く、しかしどこか遠いものを見ている。九十五年の人生で聴いてきた音、歩いてきた道、出会ってきた子ども達。そのすべてを、今この一打に集めているようだった。
ハイッ~~~!!
象山の気迫の声が、張りつめた空気を引き裂いた。
かける「来るぞ」
かけるの短い一言に、全員の背筋が伸びた。
P42|森羅万象と共鳴する前弾き|風、空気、大地の息吹
象山の三味線が鳴った瞬間、澄美田寺の新緑がざわめいた。
木々の葉が、まるで音に返事をするように揺れる。枝の影が石畳に震え、境内全体が三味線の響きに包まれていく。
鳥達も、象山の三味の音色に共鳴するかのようにさえずり始めた。高い声、短い声、遠くから返ってくる声。それらが三味線の隙間に入り、自然の囃子になる。
りゅうこう「……鳥も、入ってる」
象山「自然に拒まれた音は、本物ではない。自然が寄ってくる音を鳴らすんぢゃ」
象山の前弾きは、さらに深くなった。
風、空気、大地の息吹。すべてが三味線と一体化していくようだった。音はただ耳に届くだけではない。足元から、背中から、胸の奥から、じわじわと広がってくる。
幾層にも重なった音の波紋が、境内を円のように包み込んだ。つむぎ達は、その真ん中に立っている。
つむぎ「音が、見える……」
ともえ「んだ。風も空気も、みんな一緒に鳴ってるだ」
ひびき「ぶちすごい……太鼓でも、こんなふうに場を包めるようになりたいけん」
象山は目を閉じたまま、さらに一音を深く沈めた。
P43|神がかった前弾き|左手と右手の残像
次の瞬間、象山の左手が動いた。
棹の上を、指が残像を残すほど激しく移動する。先から根本へ、根本から先へ。スリ上げ、スリ下げ。糸が悲鳴のように鳴り、またすぐに美しい余韻へ変わる。
つむぎ達は、食い入るように見つめていた。
つむぎ「あんなに激しいのに……音がきれい」
りゅうこう「……指が、音を引きずってる」
かける「あれが三下がりの怖えところだ。指先ひとつで、泣く音にも笑う音にもなる」
今度は、右手のバチが走った。
バチは残像を残しながら、三味線の糸へ激しく打ち込まれる。皮を打つ音、糸を弾く音、胴の奥で響く音。それらが一瞬ごとに重なり、境内の空気を震わせた。
言葉にならない衝撃が、子ども達を突き抜ける。
音が止まった瞬間、つむぎ達は一斉に拍手した。誰かが合図したわけではない。身体が勝手に動いていた。
はやり「すごすぎて、言葉が迷子ジャン!」
ひびき「今の、腹の奥まで来たじゃけん!」
ともえ「じぇじぇ……心臓がまだ鳴ってるだ」
象山は、満足そうにうなずき、唄へ入るための息を吸った。
P44|津軽三下がりの唄|人の世に生きる喜び
象山の声が、森羅万象と一体化するように広がった。三味線の音はもう、ただの伴奏ではない。風も、木々も、空も、子ども達の鼓動も、すべてを巻き込んで唄が立ち上がる。
人の世に 生きる喜び
その言葉は、明るく叫ぶものではなかった。深く、静かに、かみしめるような声だった。
音の波紋が、つむぎ達を包み込む。じょんがらのような激しさでも、あいやのような港のざわめきでも、よされのような祭りの熱でもない。三下がりは、もっと内側へ入ってくる。
かみしめながら
つむぎは、目を閉じた。生きる喜びという言葉が、なぜか少し悲しく聞こえた。悲しいのに、あたたかい。物悲しいのに、美しい。
つむぎ、はやり、りゅうこう、ともえは、自然と手拍子を始めた。強すぎない、唄を邪魔しない拍。ひびきは指笛を吹き、かけるは声を張った。
かける「いよ! ニッポンイチ!」
象山の顔が、ぱっと輝いた。
アー 謡いかたるも 三下り
魂を揺さぶるような唄声が、境内の空へ伸びていく。
はやり「楽しいのに、胸がぎゅっとするジャン……」
ともえ「んだ。泣きたいのに、笑いたくもなるだ」
象山「それが三下がりぢゃ。陰の中に、美しい光がある」
P45|三下がりフィニッシュ|紙芝居、いや三味芝居最高ジャン!
象山は最後の力を込めるように、三味線を抱え直した。空気がもう一度、ぴんと張りつめる。
おりゃ!
気迫の掛け声と同時に、象山のバチが走った。
ジャジャジャ! ジャッ!
三味線の音が、鋭く、重く、境内に刻み込まれる。糸が鳴り、皮が鳴り、胴が鳴り、空気が鳴る。
そして象山は、三味線を高く掲げるようにして、最後のキメへ入った。
ジャー―――――ン
長い余韻が、寺の屋根を越え、空へ伸びていく。
つむぎ「すごい!!」
りゅうこう「魂、震えた」
かける「てやんでい」
ひびき「日本の誇りじゃけ」
ともえ「じぇじぇじぇ!」
はやり「紙芝居、いや三味芝居最高ジャン!」
子ども達の声が重なり、境内に大きな拍手が広がった。
象山は三味線を抱えたまま、目を細めた。九十五歳の旅芸人は、まるで少年のように笑っている。
象山「ほほう。三味芝居か。そいつはええ名ぢゃ」
はやり「商標登録するジャン!」
かける「すっとこどっこい。すぐ商売にすんな」
つむぎは、まだ胸の奥で鳴り続けている音を感じていた。
じょんがら、あいや、おはら、よされ、三下がり。五つの唄は、ただの曲名ではなかった。土地の暮らし、人の祈り、働く声、喜び、悲しみ、そして自然の息吹そのものだった。
つむぎ「もっと知りたい。もっと、ちゃんと弾けるようになりたい」
象山「その気持ちがあれば、音は必ず育つ」
澄美田寺の境内に、あたたかな風が吹いた。紙芝居は終わった。けれど、つむぎ達の中では、津軽五大民謡の物語がここから始まっていた。
P47|ともえちゃん、三味線一緒にやろうよ
三味芝居の熱気が少しずつ落ち着いてきたころ、つむぎは胸の高鳴りを抑えきれないまま、ともえの前へ駆け寄った。
つむぎ「ともえちゃん、やっぱり三味線やろうよ!」
ともえは、驚いたように目を開いた。けれど、すぐに頬がやわらかくゆるむ。うれしい。そう思っているのは、表情を見ればすぐにわかった。
つむぎ「一緒にやったら絶対楽しいよ!」
つむぎの声はまっすぐだった。第1話の三味線体験で見かけた時から、どこか気になっていた子。第2話の校門で一度断られても、今日また同じ音の場に立っている。
それなら、今度こそ一緒に三味線を弾けるかもしれない。つむぎはそう思っていた。
ともえ「……んだ。今日の演奏聴いて、三味線も、改めて好きになっただ」
ともえの声には、迷いと喜びが混ざっていた。三味線への憧れは、まだ確かに残っている。象山の演奏は、その気持ちをもう一度強く揺らした。
ともえ「だども、オラには篠笛と太鼓があるだ」
ともえは、肩にかけた篠笛袋をそっと握った。
それは断るための言葉ではなかった。自分が大切にしてきた音を、簡単に手放せないという、静かな決意だった。
P48|好きだからこそ、中途半端なことはできねえだ
ともえは、少しだけ視線を落とした。三味線が好き。篠笛も好き。太鼓も好き。だからこそ、全部を軽い気持ちで抱え込むことはできなかった。
ともえ「好きだからこそ、中途半端なことはできねえだ」
その言葉に、つむぎははっとした。
好きなら全部やればいい。楽しいなら一緒にやればいい。つむぎはそう思っていた。でも、ともえにとって好きという気持ちは、簡単に手を伸ばすことではなく、ちゃんと向き合うことだった。
ひびき「ほうじゃね。つむぎちゃん達は三味線をそのまま続けて」
ひびきが明るく、けれど真剣な声で続けた。
ひびき「わしとともえは太鼓と笛で支える。それでええじゃろ」
支える。
その言葉が、つむぎの胸に残った。
三味線を弾く人だけが主役ではない。太鼓が拍を支え、篠笛が風を入れ、唄が心を運ぶ。象山がさっき教えてくれた民謡の輪が、目の前で形になろうとしている。
つむぎ「そっか……一緒にやるって、同じ楽器をやることだけじゃないんだ」
ともえ「んだ。違う音でも、一緒に向かえるだ」
ひびき「ぶちええ民謡仲間じゃけん!」
つむぎの顔に、ゆっくり笑顔が戻っていった。
P49|みなで繋ぐ伝統伝承
そのやりとりを聞いていた象山が、三味線を膝に置いたまま、満足そうに笑った。
象山「そうぢゃ。民謡は一人で守るもんではない」
つむぎ達は、自然と象山の方を向いた。
象山「唄う者、弾く者、叩く者、吹く者、聴く者」
象山は、ひとりひとりを見るように、ゆっくりと言葉を置いていく。
象山「みながいて、ようやく残る」
つむぎは、思わず胸の前で手を握った。
つむぎ「じぇじぇ。三味線だけじゃないんだ……」
自分でも気づかないうちに、ともえの東北弁が移っていた。つむぎは「あっ」と口を押さえたが、みんなは笑っている。
はやり「みんなで民謡、ぶち楽しそうジャン!」
ひびき「こりゃええ! 早速方言がコラボしちょるわ!」
はやりの「ジャン」、ひびきの「ぶち」、ともえの「じぇじぇ」。それぞれの言葉が、境内で混ざって笑いになる。
象山「ほほう。言葉も音も混ざり合う。ええ民謡の芽が出てきたのう」
つむぎは、今日聴いた五つの民謡を思い返した。土地が違えば音も違う。人が違えば唄も違う。だからこそ、みんなでつないでいく意味があるのだ。
P50|音楽室で一緒にシャミろう、と思ったら
つむぎは、ともえに向かって手を差し出した。気持ちはもう、次の音へ走り出していた。
つむぎ「じゃあ、明日、音楽室で三味線と笛と太鼓で、一緒にシャミろう!」
ともえは少し驚いたあと、つむぎの手を取った。
ともえ「うん。やってみたいだ」
そこへ、ひびきも元気いっぱいに手を重ねた。
ひびき「わしゃ太鼓でぶち鳴らすけん!」
三人の手が重なり、はやりも横から飛び込もうとした、その時だった。
かける「ちょっと待て。音楽室で太鼓は無理だぞ」
空気が、ぴたりと止まった。
ひびき「ほうじゃ。学校では和太鼓打てる場所は無くなってしもうたんじゃ」
はやり「えええ!? 民謡セッション、開幕前に会場問題ジャン!」
つむぎは目をぱちぱちさせた。音楽室なら何でもできると思っていた。でも、太鼓の音は大きい。床も壁も、近くの教室も、全部に響いてしまう。
かける「三味線と笛はともかく、太鼓は場所を選ぶ。音の大きさも、楽器の一部なんでい」
新しい仲間と一緒にやりたい。その気持ちだけでは、まだ足りない。音を出すには、音を受け止められる場所も必要なのだった。
P51|木曜日、公民館で再会の約束
少し考えたあと、ともえが顔を上げた。困った表情は、もう消えている。
ともえ「オラたち、民謡保存会で木曜日に公民館で練習してるだ」
つむぎの目がぱっと輝いた。
ひびき「太鼓も笛も音出せるけん、来んさい!」
つむぎ「行く! 絶対行く!!」
はやりも、両手を上げて飛び跳ねた。
はやり「公民館セッション、予約完了ジャン!」
かける「予約じゃねえ。約束だ」
澄美田寺の門の前で、つむぎ、はやり、りゅうこう、かけるの四人組と、ともえ、ひびきの二人組は向かい合った。
午前の陽射しは、少しずつ昼の強さへ変わり始めている。けれど、子ども達の顔には疲れよりも、これから始まる音への期待があった。
ともえ「木曜日、待ってるだ」
ひびき「遅れんように来んさいよ!」
つむぎ「うん! またね!」
みんなで手を振り、門の前で解散する。
象山の三味芝居は終わった。けれど、つむぎ達の中では、新しい民謡の輪が動き出していた。
P52|月曜日の現実|いきなり五大民謡は背伸びしすぎでい
翌日月曜日、放課後の音楽室。つむぎ達はそれぞれの三味線を構えていた。
日曜日に聴いた津軽五大民謡の音が、まだ胸の奥で鳴っている。じょんがら、あいや、おはら、よされ、三下がり。どれも、忘れられない音だった。
つむぎ「よ~し、あの興奮を忘れないうちに五大民謡に挑戦!」
はやり「まずはじょんがらで爆速ジャン!」
はやりはすでに、ものすごい速弾きをしている自分を想像しているらしい。目がきらきらしている。
かける「すっとこどっこい! やめとけ!」
かけるが、即座に手で制止した。
はやり「ええ!? せっかく血が騒いでるジャン!」
かける「いきなり五大民謡は背伸びしすぎでい」
つむぎは、三味線を抱えたまま少し肩を落とした。やりたい気持ちはある。でも、象山の演奏を思い出すほど、自分達との差も思い知る。
かける「まずは、とらじょさま、嘉瀬奴踊り、津軽甚句からだ」
りゅうこう「……入口」
かける「そうだ。入口を飛ばして奥へ行こうとすりゃ、足元から転ぶんでい」
五大民謡へ向かう道は、いきなり頂上へ飛ぶ道ではない。まずは、ちゃんと入口から入る必要があった。
P53|初心者入門曲|とらじょさま、嘉瀬奴踊り、津軽甚句
かけるは黒板の前に立ち、チョークで三つの曲名を書いた。
一、とらじょさま
二、嘉瀬奴踊り
三、津軽甚句
かける「とらじょさま。構成がシンプルで、スクイのみで対応可」
つむぎは、黒板の文字を見ながらうなずいた。まずはシンプルな構成から。難しい曲に憧れる気持ちはあるが、手が追いつかなければ音にはならない。
かける「嘉瀬奴踊り。ハネたリズムと四枚バチとチリたらの入門曲として」
はやり「チリたら! りゅうこうの得意分野ジャン!」
りゅうこう「……まだ得意じゃない」
かける「津軽甚句。構成は嘉瀬奴踊りと似てるから、並行してとっつきやすい」
黒板に並ぶ三曲は、津軽五大民謡ほど巨大な山には見えない。けれど、そこには確かに津軽へ続く道があった。
つむぎ「そっか! 入口からちゃんと入るんだね」
かける「ああ。基礎をなめたやつは、民謡にそっぽ向かれる」
はやり「民謡、意外と厳しいジャン……!」
つむぎは三味線を構え直した。象山のようには、まだ弾けない。それでも、そこへ向かう一歩は今日から踏み出せる。
P54|再会の木曜日|澄美田公民館練習室
木曜日。放課後の澄美田公民館練習室。床は土間、壁はコンクリート。飾り気は少ないが、音を出すための空間としては十分な広さがあった。
部屋の中央には、和太鼓が一台置かれている。
つむぎ達が三味線ケースを背負って入ると、ともえとひびきが法被姿で待っていた。
ひびき「来たのう! 太鼓の準備はバッチリじゃけん!」
ひびきは、すでにバチを手にしている。全身から「早く打ちたい」という気持ちがあふれていた。
ともえ「んだ。一緒に合わせるの、楽しみにしてただ」
ともえは篠笛を手に、少し緊張しながらも嬉しそうに笑った。
はやり「早速、民謡セッション、開幕ジャン!」
はやりの声で、みんなの気持ちが一気に前へ出た。
つむぎ「三味線と笛と太鼓……本当に一緒にできるんだね!」
かける「浮かれすぎんなよ。合わせるってのは、ただ同時に鳴らすことじゃねえ」
ひびき「わかっとるけん。まずは一発、鳴らしてみんさい!」
公民館の練習室に、新しい音の輪が生まれようとしていた。
P55|バラバラでちぐはぐな二人|調子なら絶好調ジャン!!
三味線、篠笛、太鼓。最初は勢いよく始まった。
ひびきの太鼓が芯のある拍を打つ。ともえの篠笛がその上にすっと乗る。かけるの三味線は全体を引き締め、りゅうこうの音も静かに寄り添う。
軽快な音が、公民館の練習室に広がった。
ところが、つむぎとはやりの三味線だけが、どうにも噛み合わない。
つむぎの音は少し沈み、はやりの音は妙に浮く。二人が焦って弾けば弾くほど、音はちぐはぐになっていった。
りゅうこう「調子わるい」
無言男子りゅうこうが、ぼそっと言った。
はやり「調子なら絶好調ジャン!!」
はやりは胸を張った。本人の元気だけは、確かに絶好調だった。
かける「バカやろう! 三味線の調子が悪いんだよ!」
かけるの声が、コンクリートの壁に響いた。
つむぎ「三味線の……調子?」
ともえ「んだ? 調子って、元気のことじゃねえだか?」
ひびき「なんじゃなんじゃ。三味線にも体調があるんかいの?」
かけるは、大きく息を吐いた。
かける「てやんでい。次に覚えるのは、三味線の調子。本調子、二上り、三下りだ」
つむぎ達は顔を見合わせた。
象山から五大民謡を聴いたばかりのつむぎ達に、また新しい扉が開こうとしていた。
P56|次回予告|第七話 調子良いジャン!! 三味線の調子
シャミる! 次回予告。
画面いっぱいに、三味線の音符と祭りのような色が広がる。はやりが勢いよく前に飛び出し、三味線を抱えて叫んだ。
はやり「へい! らっしゃい! いっちょあがり! ニ上がり! 三下がりジャン!」
すかさず、かけるが指を突きつける。
かける「忘れちゃならねえ! 本調子!」
つむぎ「よ! 名調子!!」
つむぎが明るく声を上げると、りゅうこうが静かに目を伏せた。
りゅうこう「……はずした」
一瞬だけ空気が止まる。しかし、かけるがすぐに画面の中央へ出た。
かける「てやんでい! ここからが本番でい!! 次回シャミる!」
はやり「調子良いジャン!!」
はやりは拳を突き上げ、つむぎも笑顔で三味線を構える。りゅうこうは静かに親指を立て、かけるは力強く前を指差した。
かける「次回もぜってえみてくれよな!!」
次回 第七話|調子良いジャン!! 三味線の調子。
津軽五大民謡の感動を胸に、つむぎ達は次の基本へ進む。三味線の「調子」とは何か。本調子、二上り、三下り。その響きの違いが、次回いよいよ明らかになる。











