3話チリたら!を読む シャミる!漫画版全話もくじ シャミる!アニメ版 シャミる!サントラ
第4話登場人物紹介
![]() つむぎ主人公三味線クラブづくりに奔走中 | ![]() はやり つむぎの大親友。ムードメーカー | ![]() りゅうこう 冷静 無口、祖母は三味線弾き | ![]() かける 江戸っ子 男勝り喧嘩早が情に厚い |
![]() しゃみよし六代目 かけるの父 頑固職人 | ![]() 駿 かける兄 家を飛び出し三味線弾き放浪の旅 | ![]() 山須 トンデモ商事部長 口ぐせはザンス | ![]() 頭裸トンデモ商事係長 口ぐせはズラ |
第4話漫画版











































シャミる!第4話天神!小説版
P0|前回までのあらすじ|ついに現れた、最後の一人――。
すみみだ小学校の放課後。
夕日に染まる校舎の廊下は、いつもより少しだけ、物語の中みたいに見えた。
四年三組のつむぎは、大親友のはやりと一緒に、三味線クラブを作る決意をした。
音楽が苦手だったつむぎが、音楽室で出会った津軽三味線の音。胸の奥にまっすぐ届いたその一音は、つむぎの毎日を少しずつ変えていった。
「この音を、なくしたくない」
その気持ちだけを頼りに、つむぎとはやりは仲間を探した。
そこに加わったのが、三味線男子りゅうこう。無口で、何を考えているのか分かりにくいけれど、音を聴く耳と、三味線への思いは本物だった。
三人は、三味線クラブを作るために必要な稽古場を探し回った。音楽室を使うために動き、先生に話し、時には忍者作戦まで飛び出した。
そして激戦の末、ようやく稽古場を確保した。
けれど、クラブ設立にはまだ足りないものがあった。
四人目のメンバー。
その条件を満たすため、三人がたどり着いたのは、六年三組の前だった。
廊下の奥から、強い声が響く。
「てやんでい! 一昨日きやがれ! すっとこどっこい!」
夕日を背に、ひとりの少女が立っていた。
青い服。高く結んだポニーテール。強い目。まるで、夕日の後光を背負っているみたいだった。
つむぎは息をのんだ。
はやりは目を輝かせた。
りゅうこうは、じっとその姿を見上げた。
ついに現れた、最後の一人――。
その名は、かける。
P1|あ?なんだよ、俺は、おんなだよ。
六年三組の前で、かけるは同級生を一喝した直後だった。
言われた相手は、完全に腰が引けていた。かけるの声には、ただ大きいだけではない迫力があった。
まっすぐで、速くて、歯切れがいい。
まるで太鼓の一打みたいに、廊下の空気を一瞬で変えてしまう声だった。
つむぎ、はやり、りゅうこうの三人は、その場で固まった。
一番最初に声を出したのは、はやりだった。
はやり「……つ、つよいジャン」
はやりの目は、怖がっているというより、完全に興奮していた。
つむぎは胸の前で手をぎゅっと握る。
つむぎ「この人が……かける先輩……?」
名前は聞いていた。
吹奏楽クラブにいたことがあって、三味線もやっているらしい六年生。
けれど、目の前にいるかけるは、つむぎが想像していた「先輩」とは少し違っていた。
優しく手を振ってくれるような先輩ではない。
むしろ、近づくと火花が飛びそうな先輩だった。
りゅうこうが、ぼそっと言った。
りゅうこう「……おとこ?」
その瞬間、かけるの耳がぴくりと動いた。
ゆっくりと、かけるが三人の方を向く。
夕日の中で、ポニーテールが揺れた。
かけるは片手を腰に当て、眉をつり上げた。
かける「あ? なんだよ、俺は、おんなだよ。文句あんのか?」
つむぎとはやりは、同時に首を横に振った。
りゅうこうだけが、少しだけ目をそらした。
三味線クラブの四人目候補は、思っていたよりずっと、手ごわそうだった。
P2|三味線クラブだと?
かけるの迫力に押されながらも、つむぎは一歩前に出た。
膝が少し震えている。
それでも、ここで言わなければ何も始まらない。
つむぎは小さく息を吸った。
つむぎ「あ、あの……私たち、三味線クラブを作りたくて……」
言葉は途中で細くなった。
でも、その目だけは逃げなかった。
はやりが、すかさず横から飛び込む。
はやり「吹奏楽クラブ顧問から、かける先輩が三味線やってるって聞いて飛んで来たジャン!」
はやりの声は、いつもどおり明るい。
けれど、その明るさの中にも本気があった。
かけるはしばらく三人を見下ろしていた。
そして、鼻で笑った。
かける「三味線クラブだと?」
その声には、少しだけ刺があった。
つむぎの胸がきゅっと縮む。
かけるは肩をすくめると、江戸っ子みたいな勢いでまくし立てた。
かける「てやんでい。こちとら遊びじゃねえんだよ。おとといきやがれ!」
廊下に、ぴしっと空気が張りつめる。
……はずだった。
けれど、はやりは違うところに引っかかった。
はやり「おととい来るのは無理ジャン!!」
全力のツッコミだった。
かけるの目が、点になった。
強烈な言葉で追い返したはずなのに、真正面から言葉の意味だけを拾われた。
数秒、かけるは固まった。
つむぎは慌ててはやりを見る。
りゅうこうは、何も言わずにまばたきした。
かけるは、初めて少しだけ調子を崩された。
P3|三味線、持ってんのか?
かけるはすぐに表情を立て直した。
さっきの一瞬の沈黙など、なかったことにするみたいに、三人をにらむ。
かける「つべこべ言ってんじゃねえ! お子様の遊びにゃ付き合ってらんねえって言ってんだよ!」
その言葉に、つむぎは胸を押さえた。
遊び。
その言葉は、つむぎの心に少し痛かった。
三味線クラブを作りたい。
その気持ちは本物のはずなのに、まだ何も形になっていない。
でも、はやりは一歩も引かなかった。
勢いよくかけるに詰め寄る。
はやり「遊びじゃないジャン! つむぎは本気ジャン!」
つむぎは驚いて、はやりの横顔を見た。
はやりは、自分のことみたいに怒っていた。
その声に、かけるの目が少しだけ細くなる。
怒っているだけではない。
確かめるような目だった。
かける「本気なら聞くけどよ。この学校には三味線クラブなんてものはねえから、作るなら自分達で用意する覚悟が必要だが……お前ら、三味線、持ってんのか?」
つむぎは、息を止めた。
はやりも、りゅうこうも、同じように固まる。
三味線。
クラブを作るなら、当たり前に必要なもの。
けれど、三人はその現実を、まだはっきり見ていなかった。
緊迫した空気の中、はやりがぱっと顔を上げる。
はやり「……えっと、貰いものの三味線ならあるジャン!」
次の瞬間、りゅうこうがすばやく手を上げた。
りゅうこう「あげてない。貸してるだけ」
そのツッコミは、静かなのに速かった。
はやりは「あっ」という顔をした。
つむぎは、思わず苦笑いする。
かけるは、ふん、と鼻を鳴らした。
かける「ほれみろ。自分の三味線も持ってねえんじゃねえか」
その言葉は、ただ意地悪なだけではなかった。
三味線をやるなら、音に向き合う覚悟がいる。
かけるは、それを誰よりも知っている目をしていた。
P4|自分の三味線を、探さなきゃ。
かけるの言葉は、つむぎの胸の奥に残った。
自分の三味線。
それは、ただ楽器を買うという意味ではない気がした。
かけるは、三人を見回してから言った。
かける「三味線クラブってのはな、おもいだけじゃ始まんねえ。三味線がなきゃ、ただのママゴトだ」
きつい言い方だった。
けれど、つむぎには分かった。
かけるは、ただからかっているのではない。
三味線というものを、軽く見られたくないのだ。
つむぎの頭に、以前聞いたおばあさんの言葉がよみがえる。
楽器は、持ち主と一緒に育っていく。
音は、誰かから誰かへ渡されていく。
あのときは、まだ意味が分からなかった。
でも今なら、少しだけ分かる気がした。
つむぎ「そっか……おばあさんが言ってたように、自分の三味線を、探さなきゃ……」
つむぎの声は小さかった。
けれど、その瞳には新しい光があった。
かけるは、横目でつむぎを見る。
そして、少しだけ口の端を上げた。
かける「やっと気づいたか。すっとこどっこい」
褒めているのか、けなしているのか。
つむぎには分からなかった。
ただ、かけるの声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
次の瞬間、かけるはくるりと背を向けた。
青いランドセルを肩にかけ、廊下の奥へ歩き出す。
かける「そういう事だから、あばよ」
はやりが慌てて手を伸ばした。
はやり「待つジャン! じゃあどこで探せばいいジャン!?」
かけるは振り返らない。
夕日の中、青い背中だけが遠ざかっていく。
つむぎはその背中を見つめながら、初めてはっきりと思った。
三味線クラブを作るには、まだ何かが足りない。
その足りないものを知っているのは、きっと、かける先輩だ。
P5|こうなったら尾行するジャン!!
かけるは立ち止まらなかった。
廊下の奥へ、すたすたと歩いていく。
つむぎたちは、六年三組の前に取り残された。
夕日の光だけが、長く伸びた影を床に映していた。
かける「べらんめい! てめえで考えろい!!」
それだけ言い捨てて、かけるの背中はどんどん小さくなっていった。
三人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
つむぎは、ぎゅっと手を握った。
三味線を探す。
でも、どこで。
誰に聞けばいいのか。
どうやって選べばいいのか。
分からないことだらけだった。
その沈黙を破ったのは、やっぱりはやりだった。
なぜか、さっきまでの服装から、すでに忍者のような格好になっている。
ピンクの布で顔を隠し、目だけをきらりと光らせていた。
はやり「よっしゃ! こうなったら尾行するジャン!!」
つむぎの顔が一瞬で青ざめた。
三話での忍者作戦の記憶が、頭の中に一気によみがえる。
こそこそ歩いたこと。
バレそうになったこと。
何より、はやりが本気になると止まらないこと。
つむぎ「いや忍者の格好はしなくていいから!!」
りゅうこうは、両手を広げて小さくため息をついた。
その顔は、完全に「やれやれだぜ」と言っていた。
けれど、りゅうこうも歩き出す準備はしている。
結局、誰もかけるを見失うつもりはなかった。
つむぎは、廊下の先に消えかけている青い背中を見た。
かける先輩を追えば、三味線のことが分かるかもしれない。
自分たちの三味線を探す手がかりが、見つかるかもしれない。
はやりが走り出す。
りゅうこうが、その後を静かに追う。
つむぎも、少し遅れて駆け出した。
夕日に照らされた廊下を、三人はかけるの後ろ姿を追って走っていく。
三味線クラブの物語は、またひとつ、思いもよらない方向へ転がり始めた。
P6|澄美田駅前|古い町並みと再開発看板
校舎を出て、かけるの後を追っていくうちに、つむぎたちは澄美田駅前まで来ていた。
駅前には、古い商店街が広がっていた。
木の看板。少し色あせた暖簾。ガラス戸の奥に見える、昔からそこにあるような棚や道具。
ラーメン屋、八百屋、魚屋、着物屋。
ひとつひとつの店は大きくないけれど、どの店にも、人の手で守られてきた時間がしみこんでいるようだった。
その通りを、かけるは迷いなく歩いていく。
青いランドセルを背負った背中は、振り返る気配もない。
つむぎは、足を止めそうになりながら、周りを見渡した。
つむぎ「ここ……昔からあるお店が多いね」
すみみだ小学校の近くにも商店街はある。
でも、ここは少し違った。
古いだけではない。
どの店も、ちゃんと使われていて、ちゃんと生きている。
その感じが、つむぎには不思議だった。
はやりは、きょろきょろと辺りを見回していた。
そして、商店街の向こうに大きく立っている看板を見つける。
そこには、ピカピカの大きなビルの絵が描かれていた。
看板の上には、大きくこう書かれている。
はやり「でも、あっちには大きなビルの絵があるジャン」
古い商店街の屋根越しに、未来のビルの絵がこちらを見下ろしている。
つむぎは、その看板を見て、少しだけ胸がざわついた。
新しい建物は、きっと便利なのだろう。
でも、その場所にある今の店は、どうなるのだろう。
考えかけたとき、りゅうこうが前を指さした。
かけるは、もうずっと先を歩いている。
りゅうこう「……置いてかれる」
その一言で、つむぎとはやりは我に返った。
二人は慌てて駆け出す。
りゅうこうも、少し遅れて走り出した。
その背後から、妙に大きく、妙にクセのある声が響いた。
謎の声「ココざんすね!!」
つむぎたちは、思わず振り返りそうになった。
けれど、かけるの背中はどんどん遠ざかっていく。
古い商店街と、大きな再開発看板。
そのあいだを、三味線クラブの三人は、青い背中を追って走っていった。
P7|トンデモ商事都市開発コーポレーション登場
つむぎたちの背後で、どこか芝居がかった足音がした。
どん。
という効果音が聞こえてきそうなほど大げさに、二人の大人が商店街に現れた。
一人は、緑色のスーツを着たやせ型の男。
クセのある髪型に、細いメガネ。指先まで芝居がかっていて、立っているだけで「自分はできる男です」と言いたげだった。
もう一人は、青いスーツを着た大柄な男。
四角い顔に、レスラーのような体。胸板も腕もやたらと厚く、歩くたびに地面が少し揺れるようだった。
緑のスーツの男が、片手を高く掲げる。
社員Aザンス部長「古い町並みを一新するザンス。これこそ未来ザンス」
その言い方は、あまりにも大げさだった。
まるで舞台の上で、観客に向かって演説しているみたいだった。
青いスーツの男も、負けじと胸を張る。
社員Bズラ係長「老朽化は危険ズラ! 筋肉と再開発は裏切らないズラ!」
商店街の空気が、一瞬だけ止まった。
便利とか、未来とか、老朽化とか。
言っていることは大人っぽいのに、二人の語尾が強すぎて、どうにも真面目に聞こえない。
はやりが、つむぎの横で口元を押さえた。
はやり「ご、語尾、強すぎジャン」
りゅうこうは、いつもの無表情で小さくつぶやく。
りゅうこう「……ズラ」
その声を聞き逃さなかった青スーツの男が、ぷるぷると震えた。
顔を真っ赤にして、両手で頭を押さえる。
社員Bズラ係長「ズラじゃないズラ! これは地毛ズラ!」
はやりが「やっぱりズラって言ってるジャン」と言いかけたが、つむぎは慌てて口をふさいだ。
そのとき、少し先でかけるを追っていたつむぎが、はっと前を見る。
かけるの背中が、商店街の奥へ消えそうになっていた。
つむぎは二人へ向かって、大きく手を振った。
つむぎ「二人共はやく!!」
はやりは、ザンス部長とズラ係長を気にしながらも、すぐに走り出した。
りゅうこうも、少しだけ肩をすくめて後に続く。
緑のスーツの男は、メガネをくいっと持ち上げた。
青いスーツの男は、まだ頭を押さえていた。
古い商店街の道の上で、三味線クラブの子どもたちと、怪しげな都市開発の大人たちが、初めて同じ場所に立った。
P8|三味線 しゃみよし
かけるは、古い三味線店の前でぴたりと足を止めた。
そこは、商店街の中でもひときわ静かな店だった。
木の看板には、太くやわらかな文字で店の名前が書かれている。
入り口には、藍色の暖簾。
ガラス戸の奥には、いくつもの三味線が並んでいる。
新しくてピカピカ、という感じではない。
けれど、古びているのとも違う。
何度も手入れされ、何度も人の手で整えられてきたものだけが持つ、落ち着いた光があった。
つむぎは、看板を見上げた。
つむぎ「しゃみ……よし?」
その名前を口にした瞬間、店の奥から、かすかに木の匂いが流れてきた気がした。
かけるが、ゆっくりと三人を振り返る。
目が、細くなる。
かける「なんだ。てめえら。人をつけまわしやがって」
つむぎはぎくりとした。
尾行していたつもりは、少しだけある。
でも、悪いことをしているつもりはなかった。
はやりは、そんな空気などおかまいなしに、店の中をのぞきこんだ。
その瞬間、はやりの目が一気に輝く。
はやり「すごいジャン!! 三味線いっぱいあるジャン!!」
店の中には、三味線が本当にたくさん並んでいた。
白い胴。
細く長い棹。
大きな糸巻き。
並んでいるだけなのに、ひとつひとつが違う顔をしている。
つむぎの胸が、自然に高鳴った。
三味線を探す。
その言葉が、急に現実になった気がした。
はやりは、もう暖簾の前にいた。
りゅうこうも、無言でその横に立つ。
つむぎも、吸い寄せられるように一歩近づいた。
かける「おいこら!! ちょろちょろ勝手に入るんじゃねえ!」
かけるが叫んだときには、もう遅かった。
三人は、聞く耳を持たずに暖簾をくぐっていた。
藍色の布が揺れる。
その向こうに、三味線の匂いと、古い木の音が待っていた。
P9|六代目しゃみよし
店内に入った瞬間、つむぎは息を止めた。
そこには、見たことのない世界が広がっていた。
所狭しと並ぶ三味線。
胴。棹。糸巻き。駒。バチ。
ガラスケースの中には、きれいに並べられた小物があり、棚には見たことのない部品がいくつも置かれている。
壁に立てかけられた三味線たちは、まるで静かに出番を待っているみたいだった。
はやりは、目をきらきらさせて店内を見回している。
りゅうこうは、黙ったまま一丁の三味線の胴を見つめていた。
つむぎは、どこを見ればいいのか分からないほど、胸がいっぱいになっていた。
その奥に、一人の男の人がいた。
藍色のタオルを、バンダナのように頭に巻いている。
藍色の職人作業着。
太い眉。日に焼けたような肌。こわそうなのに、どこか温かい目。
その人が、作業の手を止めてこちらを見た。
父「おう、かける。帰りが遅えじゃねえか」
かけるは、少しだけ顔をしかめた。
いつもの強気な表情なのに、学校で見たときとは少し違う。
まるで、勝手を知っている場所に戻ってきた人の顔だった。
かける「うるせえな。客だよ」
父と呼ばれるその男の人は、つむぎたちをじろりと見た。
つむぎは、背筋をぴんと伸ばす。
はやりは、なぜか胸を張る。
りゅうこうは、いつもどおり無表情だった。
父は、少しだけ口の端を上げる。
父「客? ランドセルしょった豆粒じゃねえか」
その一言に、はやりがすぐ反応した。
はやり「豆粒じゃないジャン!」
店内に、はやりの元気な声が響いた。
父は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
かけるは、ため息をつく。
つむぎは、二人を見比べた。
この人は、ただの店の人ではない。
かける先輩の、お父さん。
そして、きっとこの店を守っている人。
三味線に囲まれた小さな店の中で、つむぎはまたひとつ、この音の世界の入口に立った気がした。
P10|親子……なんだ……
はやりの「豆粒じゃないジャン!」という声が店内に響いたあと、かけるの父は、すぐにかけるの方へ向き直った。
その顔は、完全に父親の顔だった。
そして同時に、江戸前の職人の顔でもあった。
父「それはそうと、てめえ、また学校で啖呵切ってきたな? 学校から電話がへえってたぞ」
つむぎは、思わずはやりと顔を見合わせた。
学校から電話。
つまり、さっき六年三組の前で見たあの一件は、これが初めてではないらしい。
かけるは悪びれもせず、腕を組んだ。
かける「親父に似ただけだよ」
その一言で、父の眉がぴくりと動いた。
空気が、一気に熱くなる。
父「てやんでい。俺の方が品があらあ!」
つむぎには、どこが品なのか分からなかった。
けれど、かけるは一歩も引かない。
むしろ、火に油を注ぐように、父へ向かって指を突きつけた。
かける「すっとこどっこい! 無駄口叩かねえで客の相手しやがれ!」
父もかけるも、声が大きい。
言葉が速い。
ぽんぽんと飛び交う江戸っ子言葉は、まるで三味線の撥が胴を叩くみたいに、店内の空気を弾ませていた。
怒っているのか。
仲が悪いのか。
それとも、これがいつもの会話なのか。
つむぎには、判断がつかなかった。
はやりは、ぽかんと口を開けている。
りゅうこうも、少しだけ目を丸くしていた。
かけると父は、まだ言い合っている。
言葉は乱暴なのに、不思議と本気で傷つけ合っている感じはしない。
それどころか、二人の間には、同じ呼吸のようなものがあった。
同じ速さで怒り、同じ速さで返し、同じように相手をまっすぐ見ている。
つむぎは、小さくつぶやいた。
つむぎ「親子……なんだ……」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。
学校で見たかけるは、誰にも頼らない強い先輩に見えた。
でもここでは、違う。
強くて、口が悪くて、すぐ怒る。
それはきっと、このお父さんから受け継いだものなのだ。
そして、三味線の音も。
この店の匂いも。
この親子の言葉の速さも。
全部が、かけるという人を作っている。
つむぎは、店内に並ぶ三味線をもう一度見た。
三味線は、ただの道具ではない。
人と人の間にあるもの。
親から子へ、店から町へ、昔から今へ受け渡されていくもの。
つむぎはそのことを、少しだけ感じ始めていた。
P11|三味線って、大きく分けてこの三種類だ。
三味線店しゃみよしの店内には、つむぎが見たことのないものが、あふれるほど並んでいた。
白い胴。細長い棹。黒く大きな糸巻き。木の箱に並んだ駒。きらりと光るバチ。
それらに囲まれていると、まるで三味線そのものの中に入ってしまったみたいだった。
つむぎは、かけるの父に向かって、これまでのことを一生懸命説明した。
音楽室で津軽三味線の音に出会ったこと。
吹奏楽クラブの顧問の先生から、かけるが三味線をやっていると聞いたこと。
おばあさんが、つむぎたちの三味線クラブを喜んでくれたこと。
そして、自分たちの学校に、三味線クラブを作りたいと思っていること。
つむぎ「三味線を探してるんです!」
はやり「学校で三味線クラブを作るんだジャン!」
はやりは身ぶり手ぶりをいっぱい使って、学校とクラブの説明をした。
りゅうこうは多くを語らなかったけれど、店内に並ぶ三味線をじっと見ていた。
かけるは腕を組んだまま、少し離れたところで黙っている。
かけるの父は、三人の話を最後まで聞いた。
途中でちゃかすことも、笑い飛ばすこともしなかった。
太い眉の下の目が、つむぎたちをまっすぐ見ている。
やがて、父は顎に手を当てて、ゆっくりとうなずいた。
父「ふむ、事情はわかった」
その声には、さっきまでの口げんかとは違う、職人の落ち着きがあった。
父は奥の棚から三丁の三味線を出してきた。
ひとつひとつを丁寧に持ち、台の上に並べる。
つむぎたちは、思わず息をのんだ。
同じ三味線に見える。
でも、よく見ると少しずつ違っていた。
棹の太さ。胴の大きさ。全体の雰囲気。
父は三丁の前に立つと、両手を広げた。
父「三味線ってひと口に言ってもな、色々あるが、大きくわけてこの三種類だ」
まず父が指したのは、いちばんすらりとした三味線だった。
棹が細く、見た目も軽やかだった。
父は、細棹について説明する。
長唄などで使われることが多く、繊細で高めの音が出る三味線。
次に父が指したのは、少し落ち着いた雰囲気の三味線だった。
中棹は、地唄などに使われることが多い。
音はやわらかく、落ち着いた深みがあるという。
最後に父が指したのは、三丁の中でいちばんどっしりした三味線だった。
太棹は、津軽三味線でよく使われる。
力強く叩く音に向いていて、棹も胴も存在感があった。
父は、つむぎたちを見回した。
父「おめえさんらがやろうとしてんのは、たぶん津軽だ。だったら太棹だな」
太棹。
つむぎは、その言葉を胸の中で繰り返した。
三味線にも種類がある。
どれでも同じではない。
自分たちが鳴らしたい音に合う三味線を、ちゃんと選ばなければいけない。
三味線クラブを作るということは、想像していたよりずっと本格的なことなのだと、つむぎは少しずつ分かり始めていた。
P12|天神|音をそろえる三味線の頭脳
父の説明を聞いたあとも、つむぎの目は三味線から離れなかった。
太棹、中棹、細棹。
三味線には種類がある。
それだけでも驚きだったのに、近くで見れば見るほど、ひとつひとつの形に意味があるように思えてきた。
つむぎは、そっと一丁の三味線に近づいた。
細長い棹の上へ視線をたどる。
その先には、曲線を描いた頭のような部分があった。
黒い糸巻きが横に伸びていて、三本の糸がそこからまっすぐ胴へ向かっている。
つむぎは、吸い寄せられるように手を伸ばした。
その指先が、三味線の上の部分に触れようとした瞬間だった。
父「そこは天神だ」
つむぎの手が、空中で止まる。
父の声は強くはなかった。
でも、その一言には、大事な場所に触れようとしていることを知らせる重みがあった。
つむぎは、父を見上げた。
つむぎ「てんじん……?」
聞いたことのあるような、ないような言葉だった。
天神。
学校で聞く言葉とも、お祭りで聞く言葉とも、少し違って聞こえた。
父は三味線の頭の部分を指さした。
父「三味線の頭脳よ。音を調整する糸巻きも天神内部にあるからよ。しっかりしてねえと、音がそろわねえ」
音がそろわない。
その言葉を聞いたとき、つむぎは三味線の天神をもう一度見つめた。
きれいな形をしているだけではない。
糸を支え、音を整え、三味線全体の調子を決める大切な場所。
つむぎには、それがまるで三味線の心臓と頭を合わせたような部分に思えた。
そのとき、かけるがほんの少しだけ反応した。
さっきまで腕を組んで黙っていたかけるの目が、父の言葉にわずかに揺れた。
しっかりしていないと、音がそろわない。
それは三味線の話のはずだった。
でも、その言葉は、かける自身にも刺さったように見えた。
かけるはすぐにいつもの顔に戻った。
そして、少し得意げに一歩前へ出る。
かける「天神は“乳袋”から上を総称して“天神”って呼ぶんだよ」
かけるは、三味線の上の部分を指しながら説明した。
糸巻き。
月形。
音の調整や、三味線の重心に関わる重要な部分。
つむぎは、かけるの説明を聞きながら、目を丸くした。
かけるは口は悪い。
でも、三味線のことになると、言葉がすっと出てくる。
それは、知識だけではない。
ずっとこの店で、三味線を見てきた人の言葉だった。
かける「“天神!”は、あたしの決め台詞だ」
はやりが「決め台詞いいジャン!」と目を輝かせる。
りゅうこうは黙って天神を見ていた。
つむぎは、三味線の上にあるその場所を、もう一度そっと見つめた。
天神。
三味線の頭脳。
音をそろえるための、大切な場所。
そして、かける先輩の中にも、きっと何かをそろえようとしている音がある。
つむぎは、そんな気がした。
P13|細棹と太棹|軽さと重さの違い
父の説明を聞いているうちに、はやりの目はどんどん輝いていった。
三味線には種類がある。
太さが違えば、音も違う。
そう聞いたら、試してみたくなるのがはやりだった。
はやりは、細棹の三味線をそっと持ち上げた。
……つもりだった。
けれど、持った瞬間、思っていたより軽かったのか、はやりはぱっと顔を明るくした。
はやり「軽いジャン! これならラクチンジャン!」
そのまま高らかに掲げようとしたはやりに、かけるの声が飛ぶ。
かける「コラ! 売りモンだぞ! 丁重に扱えバカヤロー」
はやりは慌てて三味線を抱え直した。
つむぎは思わず息を止め、りゅうこうは静かに一歩下がった。
父は、そんな様子を見て少しだけ笑う。
父「ああ、実は特に決まりはねえから、どの三味線でも構やしねえ」
その言葉に、つむぎは少し安心した。
津軽三味線をやるなら太棹。
そう決まっているのかと思っていた。
けれど、父は首を横に振った。
決まりではない。
ただ、向き不向きがあるのだという。
父は細棹の棹を指さした。
父「だが細棹は棹の幅が狭い分、速弾きと打ち込みのある津軽にゃあ、おススメはできねえ」
細い棹は繊細な音に向いている。
でも、津軽三味線のように強く打ち込み、速く弾く奏法には、少し心もとない。
つむぎは、細棹を見ながら小さくうなずいた。
見た目だけでは分からない。
軽いから楽、というだけでは選べない。
次に、はやりは太棹を持ってみた。
両手にずしりと重さが伝わった瞬間、はやりの体が少し沈む。
はやり「お、重いジャン! でも強そうジャン!」
その声には、驚きと興奮が半分ずつ混ざっていた。
太棹は、ただ重いだけではなかった。
持っただけで、何かを受け止める力があるように感じられた。
父は、太棹を見つめながら説明を続ける。
父「そいつはズシリと重いが、音に深みがあり、棹が広いから打ち込みにも耐えうる」
打ち込みにも耐えられる。
その言葉を聞いて、つむぎは初めて、三味線がただ優しく鳴らす楽器ではないことを実感した。
津軽三味線は、叩く。
弾く。
音を前に飛ばす。
その力を受け止めるために、太棹という形がある。
はやりは、重い三味線を抱えながら笑っていた。
かけるはあきれた顔をしている。
父は、それでもどこか楽しそうだった。
つむぎは、三味線を選ぶということが、音を選ぶことなのだと少しずつ分かってきた。
P14|りゅうこうの手|三味線弾きの証
太棹の説明が終わったあと、りゅうこうは黙ったまま一丁の三味線に近づいた。
それは、父が津軽向きだと言った太棹だった。
りゅうこうは、誰にも断らず、でも乱暴には触れなかった。
そっと右手を伸ばし、白い胴に指先を置く。
店内の空気が、少しだけ静かになった。
りゅうこうは、耳をすませるように目を細めた。
りゅうこう「……胴が鳴る」
その声は小さかった。
でも、父の耳にはしっかり届いていた。
父は、りゅうこうを見た。
さっきまでの豪快な顔とは少し違う。
職人が、音を見つけた人間を見極める顔だった。
父「ほう。おめえ、音を聴く耳があるな」
はやりが、ぱっとりゅうこうを見る。
つむぎも驚いた。
りゅうこうは、褒められても表情を大きく変えない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
りゅうこう「……少しだけ」
父は、その答えを聞いて、ふっと笑った。
そして、りゅうこうの左手に目を留める。
父は大きな手で、りゅうこうの左手をそっと取った。
乱暴ではない。
職人が楽器を調べるときと同じ、丁寧な手つきだった。
父は、りゅうこうの人差し指の爪先を見た。
そこには、ほんの小さな溝のような跡があった。
父「爪先に糸みぞがあるじゃねえか。随分弾きこみやがったな。三味線弾きの手してやがる」
りゅうこうの目が、ほんの少しだけ揺れた。
つむぎは、その小さな変化を見逃さなかった。
りゅうこうは、ただ三味線を知っているだけではない。
きっと、何度も弾いてきた。
何度も糸の上を指で滑らせ、何度も音と向き合ってきた。
はやりは、りゅうこうの手を見つめて、思わず声をのんだ。
かけるも、少しだけ表情を変えた。
今まで、りゅうこうのことをただの無口な男子だと思っていたなら、その見方は変わり始めていた。
かけるは、いつもの調子で一歩前に出る。
かける「三味線弾きは、人差し指の爪で三の糸の糸間をスライドさせて移動するため、人差し指の爪に糸みぞが出来ます」
説明口調なのに、どこか得意げだった。
つむぎは、りゅうこうの左手をもう一度見た。
小さな爪の溝。
それは、りゅうこうが今まで弾いてきた時間の跡だった。
言葉では話さない過去が、そこに少しだけ残っていた。
りゅうこうの過去と才能が、少しだけ見えた。
P15|価格問題|クラブを作るって、大変なんだね。
太棹の重さ。
天神の大切さ。
りゅうこうの手に残っていた、三味線弾きの証。
しゃみよしに入ってから、つむぎは知らないことばかり聞いていた。
三味線は、ただ音を出す道具ではない。
職人の手があり、素材があり、奏者の時間があり、受け継いできた人の思いがある。
それが少しずつ分かってきたからこそ、つむぎは、聞かなければならないことに気づいた。
つむぎは、胸の前で手を握った。
そして、父に向かっておそるおそる尋ねる。
つむぎ「津軽三味線だと……おいくらですか?」
店内が、ほんの少し静かになった。
父は、腕を組んだ。
からかうことも、はぐらかすこともしなかった。
職人として、店主として、正直に答えた。
父「ピンからキリまであるが、うちの津軽の一般向けのものは十八万から三十五万くらいだ。今は職人、材料不足で価格が年々高くなってる」
十八万。
三十五万。
つむぎの頭の中で、数字だけが大きく響いた。
今まで、おこづかいで買うものといえば、文房具やお菓子くらいだった。
でも、三味線は違う。
本物の楽器。
職人が作り、材料を集め、何年も使うもの。
その現実が、つむぎの前に急に大きく立ちはだかった。
重い空気を破ったのは、はやりだった。
はやりは両手を合わせ、商人にお願いするみたいに父へ頭を下げた。
はやり「だんな、全財産、三十五円ぽっきり!!」
一瞬、店内が止まる。
次の瞬間、横からかけるが鬼の形相で飛び出した。
かける「てやんでい、それじゃ袋だって買えやしねえ!!」
はやりの肩が、がくんと落ちた。
はやり「おこづかいで買えないジャン……」
その声は、さっきまでの元気なはやりとは別人みたいに小さかった。
つむぎも、何も言えなかった。
三味線クラブを作る。
その言葉は、まっすぐで明るくて、希望に満ちていた。
でも、希望だけでは足りない。
楽器がいる。
場所がいる。
大人の協力がいる。
お金もいる。
そして、それを本当に続けていく覚悟がいる。
つむぎは、店内に並ぶ三味線を見た。
どれも静かにそこにある。
でも、その一本一本の向こうに、職人さんの時間や、材料の値段や、守られてきた技術がある。
つむぎは、初めてその重さを感じた。
つむぎ「クラブを作るって……思ったより、ずっと大変なんだね」
言葉にした途端、胸の奥が少し沈んだ。
でも、不思議と「やめよう」とは思わなかった。
大変だと分かったからこそ、ちゃんと向き合わなければいけない。
つむぎはそう思った。
かけるは、つむぎの横顔をちらりと見た。
父も、黙ってつむぎを見ていた。
三味線クラブを作るという夢は、ここで初めて、本当の現実に触れた。
P16|中古の練習用三味線|三食食えりゃ生きてけらあ!
三味線の値段を聞いたあと、店内には少し重たい空気が流れていた。
十八万から三十五万。
つむぎたちにとって、それは簡単に手が届く金額ではなかった。
はやりの「三十五円ぽっきり」という作戦も、かけるに一瞬で切り捨てられてしまった。
つむぎは、並んでいる三味線を見つめた。
どれも美しく、どれも音を待っているように見える。
でも、その一本一本には値段があり、職人の手間があり、材料の重さがある。
夢だけでは届かない現実が、そこにあった。
そのとき、かけるの父が黙って店の奥へ歩いていった。
棚の奥、古い布をかけられた場所から、何丁かの三味線を抱えて戻ってくる。
新品ではない。
胴には少し年季が入り、皮にも使い込まれた跡がある。
けれど、父の手つきは丁寧だった。
まるで、長く眠っていた楽器を起こすように、一本一本をそっと台の上へ置いていく。
父「修理すりゃ鳴るやつが何丁かある。中古で良けりゃ相談にのるぜ」
つむぎの顔がぱっと明るくなった。
つむぎ「本当ですか!」
はやりも両手を握って、目をきらきらさせる。
はやり「流石お父さん太っ腹ジャン!」
その言葉に、父は少し照れたように鼻を鳴らした。
けれど、次の瞬間だった。
かけるが一歩前に出て、父とつむぎたちの間を遮った。
かける「おいおい、やめろよ。親父」
声は強かった。
でも、さっきまでの乱暴な勢いとは違った。
その奥に、心配が混じっていた。
かけるは父をにらみつけるように見上げる。
かける「いま赤字続きなんだろ。なんでもかんでも人にやってんじゃねえよ」
つむぎは息をのんだ。
赤字続き。
その言葉が、店内に静かに落ちた。
しゃみよしは、古くて立派な店に見えた。
でも、その内側では、思っていたよりずっと苦しい事情を抱えているのかもしれない。
かけるの父は、かけるの言葉を聞くと、太い眉をぐっと寄せた。
そして、雷のような声で言い返す。
父「うるせえ。三食食えりゃ人間は生きてけらあ!」
店内の空気がびりっと震えた。
はやりは目を丸くし、りゅうこうは無言で父を見た。
つむぎは、かけると父を交互に見る。
口は悪い。
怒鳴り方もそっくりだ。
でも、かけるは父の店を心配していた。
父は、子どもたちの三味線への思いを放っておけなかった。
ぶつかり合っているのに、どちらも本当は誰かを守ろうとしている。
つむぎには、それが少しだけ分かった。
P17|兄・駿|家を捨てた兄の名前
かけるの父の怒鳴り声が、しゃみよしの古い柱に反響した。
三食食えりゃ人間は生きてけらあ。
それは強がりにも聞こえた。
でも、かけるには、その言葉が我慢ならなかった。
かけるは拳を握りしめた。
父の優しさも、無茶も、よく知っている。
だからこそ、黙っていられなかった。
かける「そうやって店を潰す気かよ!」
その声は、店内の空気を鋭く切った。
つむぎはびくっと肩を揺らした。
はやりも言葉を失い、りゅうこうは静かにかけるを見た。
かけるの父の顔が、さらに険しくなる。
次の言葉は、今までの口げんかとは違っていた。
父「家を捨てた駿みてえな知った口きくんじゃねえ!」
駿。
その名前が出た瞬間、空気が凍った。
店内に並ぶ三味線の糸まで、ぴんと張りつめたように感じられた。
かけるの表情が止まる。
はやりの手が胸の前で固まり、りゅうこうも目を細めた。
つむぎは、ただ何も言えずに立っていた。
駿。
それは、かけるが触れられたくなかった名前なのだと、すぐに分かった。
数秒の沈黙のあと、かけるの目に怒りが戻る。
でも、それはさっきまでの怒りとは違った。
痛みが混じっていた。
かける「アニキは、そんな風にオヤジが頑固だから出て行ったんだろ!」
その言葉に、父の顔が一瞬だけ揺れた。
怒りなのか、悲しみなのか、つむぎには分からなかった。
ただ、父もかけるも、その名前をずっと胸の奥に抱えていたのだと思った。
兄。
家を出ていった人。
かけるが、今でも必死にかばおうとする人。
つむぎは、そっと声を出した。
つむぎ「お兄さん……?」
その小さな問いかけに、誰もすぐには答えなかった。
しゃみよしの店内に、古い木の匂いと、言い残された言葉だけが残った。
P18|三年前の回想|家を飛び出した駿
かけるの記憶が、三年前へ戻っていく。
そのころ、しゃみよしは今よりもずっと重い空気に包まれていた。
中東情勢の影響で物価は上がり、原材料も高騰していた。
三味線に使う材料は簡単に手に入らなくなり、職人の仕事も減っていった。
古い棚に並ぶ三味線は変わらず美しかった。
けれど、店の奥で聞こえる大人たちのため息は、日に日に増えていた。
父と、かけるの兄・駿は、その日も店の中で激しく言い合っていた。
駿は当時十二歳。
まだ子どもと言えば子どもだった。
けれど、その目は大人よりもずっと遠くを見ていた。
父は怒鳴った。
父「てやんでい! てめえは、しゃみよし七代目継がねえつもりか?」
それは父にとって、ただの問いではなかった。
六代続いた店。
先代から受け取った看板。
職人の手と、三味線の音を守ってきた時間。
そのすべてを、駿に渡したかった。
でも、駿は父と同じものを見ていなかった。
駿は三味線を背負い、まっすぐ父を見る。
駿「ここにいたって潰れるのがオチだ。俺は男だ。てめえの面倒くらい、てめえで見らあ!!」
乱暴な言葉だった。
けれど、その奥には悔しさがあった。
このまま店の中にいても、何も変えられない。
外へ出て、世界を見なければいけない。
駿はそう思っていたのかもしれない。
父は怒りに任せて叫んだ。
父「勝手にしやがれ!!」
その言葉を背に、駿は店を飛び出した。
九歳のかけるは、必死に後を追った。
小さな足で、商店街を駆ける。
夕方の風が、かけるの髪を乱した。
かける「アニキ!! 家飛び出してどうするつもりだよ!!」
駿は振り返った。
背中には三味線。
目は不思議なくらい明るかった。
家を出る人の顔ではなく、何かを始める人の顔だった。
駿「心配すんなって! それよりオヤジの事は頼んだぞ!」
その一言が、かけるの胸に深く残った。
頼んだぞ。
兄は笑ってそう言った。
でも、その言葉は、九歳のかけるには重すぎた。
父を頼む。
店を頼む。
しゃみよしを頼む。
駿の背中が遠ざかる。
かけるは伸ばした手を下ろせないまま、その姿を見送るしかなかった。
P19|駿の帰還|世界で知った三味線の価値
回想は、さらに一年ほど前へ移る。
澄美田小学校の校門の前に、ひとりの少年が立っていた。
背中には三味線。
少し背が伸び、顔つきも前より大人びている。
でも、かけるにはすぐに分かった。
兄の駿だった。
かけるは、駿を見つけた瞬間、走り出していた。
かける「アニキ!! 帰ってきたのかよ!!」
駿は、少し照れたように笑った。
その笑顔は昔と変わらない。
けれど、背負っている三味線と、目の奥の光が、旅の長さを物語っていた。
駿「いや、まだ途中だが、お前にオヤジの逸品を託したくてな」
駿は、三味線をそっとかけるへ差し出した。
それは、父が大事にしていた一本だった。
かけるは驚き、すぐには受け取れなかった。
駿は、旅で見てきた世界の話をした。
フランスの通りで、三味線の音に足を止めた人たち。
アメリカの街角で、拍手してくれた人たち。
ロシアの寒い道で、音を聴いて笑ってくれた人。
中国のにぎやかな通りで、三味線を不思議そうに見つめていた子どもたち。
国も、言葉も、暮らしも違う。
でも、三味線の音が鳴ると、人は振り返った。
駿は、まっすぐかけるを見た。
駿「かける。世界じゃな、日本の音ってすげえんだ。俺は世界に出て改めて、三味線やオヤジの偉大さを知った」
かけるは何も言えなかった。
父とけんかして家を出た兄が、世界を回って、父のすごさを知ったと言っている。
それが不思議で、悔しくて、でも少し誇らしかった。
駿は、かけるの手に三味線を預ける。
駿「これは、お前が持ってろ。ピアノも悪くねえ。でも、せっかく縁あって三味線に囲まれてるんだ。お前の中にある音を探せ」
かけるの胸が揺れた。
そのころのかけるは、吹奏楽クラブでピアノを弾いていた。
それはそれで大切だった。
でも、兄の言葉は、かけるの心の奥に眠っていた何かを叩いた。
かけるは、三味線を受け取りながらも怒鳴った。
かける「バカヤロー、勝手な事言ってんじゃねえ! 俺は今吹奏楽クラブでピアノやってんだぞ? おい!! 待てって!」
駿は笑って、また歩き出した。
背中越しに片手を上げる。
まるで、すぐまた会えると言うみたいに。
駿「心配すんなって! それよりオヤジの事は頼んだぞ!」
同じ言葉だった。
三年前に言われた言葉。
かけるの胸にずっと残っていた言葉。
けれど、このときは少しだけ意味が違って聞こえた。
父を守れ。
店を守れ。
そして、お前自身の音も探せ。
駿の背中が、夕日の中へ消えていく。
かけるは、三味線を抱えたまま、その背中をいつまでも見つめていた。
P20|トンデモ商事乱入|解体の話を進めに来たズラ!
現在。
しゃみよしの店内に、話は戻る。
三年前の駿。
一年前に帰ってきた駿。
かけるの中で、その姿が今も鮮やかに残っていた。
かけるは、父をまっすぐ見る。
怒りだけではない。
兄を信じている目だった。
かける「兄貴は逃げたんじゃねえ。探しに行ったんだ」
店内が静かになる。
つむぎは、かけるの横顔を見た。
その声には、今まで見せなかった優しさがあった。
兄をかばう優しさ。
父に分かってほしいという願い。
そして、自分自身にも言い聞かせているような強さ。
父は腕を組んだまま、そっぽを向いた。
けれど、その顔は怒っているだけではなかった。
会いたい。
心配している。
そんな気持ちを隠すように、口だけがいつものように悪くなる。
父「てやんでい、あのバカ息子、なんの連絡もよこさねえでよ」
かけるは、少しだけ目を伏せた。
父も、兄も、かけるも。
みんな不器用だった。
思っていることを、そのまま優しく言えない。
だから怒鳴る。
だからぶつかる。
でも、その言葉の奥にある絆は、つむぎにも少しだけ見えた。
そのときだった。
店の入り口が、突然にぎやかに開いた。
どん、と音がしそうなほど大げさに、二人の男が現れる。
緑のスーツに、クセのある髪型とメガネ。
青いスーツに、四角い顔と筋肉だらけの体。
駅前で見た、あの二人だった。
大きな登場効果音が、店内に鳴り響いたように感じる。
緑のスーツの男、ザンス部長が、妙に優雅なポーズで片手を上げた。
社員A「お取り込み中、失礼するザンス!」
続いて、青いスーツのズラ係長が胸を張る。
社員B「解体の話を進めに来たズラ!」
解体。
その言葉に、つむぎの胸がどきりとした。
父の顔が険しくなる。
かけるの目が鋭くなる。
りゅうこうは黙って二人を見た。
はやりだけが、少し遅れて指をさす。
はやり「あ、さっき駅前にいた変な二人ジャン!」
緊張していた店内に、妙な間が生まれた。
しかし、二人が持ってきた話は冗談ではなかった。
しゃみよし。
古い商店街。
三味線を守ってきたこの場所。
そのすべてに、再開発の影が近づいていた。
三味線クラブの楽器探しは、いつの間にか、町と店を守る騒動へと巻き込まれていく。
P21|合理で街が守れるかよ!!
しゃみよしの店内に、妙な空気が流れ込んできた。
緑のスーツを着たザンス部長。
青いスーツを着たズラ係長。
さっき澄美田駅前で見かけた、トンデモ商事都市開発コーポレーションの二人だった。
父の顔が、一瞬で険しくなる。
さっきまで、かけるや駿のことで揺れていた空気が、今度は別の緊張に変わった。
父「てやんでい! またてめえらか!!」
父の声は、店の奥に並ぶ三味線の胴まで震わせるようだった。
けれど、ザンス部長はまったくひるまない。
むしろ、舞台に上がった役者のように、片手を胸に当てて笑った。
ザンス「おやおや、すっかり嫌われものザンスねえ!」
その口ぶりは、腹が立つほど余裕たっぷりだった。
ザンスは鞄から資料を取り出すと、ばさりと広げた。
白い紙の上には、澄美田駅前の地図と、巨大な商業施設の完成予想図が描かれている。
ザンス「澄美田駅前大型商業施設計画。高齢化、老朽化、防災面、すべてを考えれば立ち退きが合理的ザンス」
合理的。
その言葉は、つむぎには難しく聞こえた。
でも、ザンスが言いたいことは分かった。
古いものは危ない。
古い店は効率が悪い。
だから、新しく大きな建物に変えた方がいい。
たぶん、そういうことなのだ。
父は資料をちらりと見ただけで、鼻で笑った。
父「べらんめい! 合理で街が守れるかよ!!」
その声には、長い年月この町で店を続けてきた人の重みがあった。
便利かどうか。
新しいかどうか。
それだけでは測れないものが、この商店街にはある。
父は、それを全身で言っているようだった。
すると、ズラ係長がなぜか胸を張り、腕の筋肉を強調するポーズを取った。
ズラ「街づくりには筋肉ズラ! いや、合理的ズラ!!」
店内の空気が一瞬だけ止まった。
はやりが、すかさず指を突きつける。
はやり「ズラ、もザンスも非合理ジャン!」
言葉遣いのことを言っているのだと、つむぎにもすぐ分かった。
ザンスとズラの顔が、同時にぐわっと近づいてくる。
ズラ「ズラじゃねえズラ!」
ザンス「合理的ザンス!」
二人の勢いに、つむぎは思わず一歩下がった。
けれど、はやりはまったく負けていない。
かけるも、父も、二人をにらみつけている。
三味線を探しに来ただけのはずだった。
それなのに、つむぎたちは今、しゃみよしと澄美田駅前の未来をめぐる話の中に、完全に巻き込まれていた。
P22|古いものは、使い捨ての反対だ。
ザンス部長は、しゃみよしの店内をゆっくりと見渡した。
壁に並ぶ三味線。
古い木箱。
使い込まれた工具。
棚に置かれた駒や糸巻き。
長い年月、何人もの職人が手を動かしてきた場所。
つむぎには、店の中のものすべてが、静かに息をしているように見えた。
けれど、ザンスの目には違って見えているようだった。
ザンスは口元をゆがめて笑う。
ザンス「古い三味線、古い看板、古い商店街。まとめて新しくした方が価値が出るザ~ンス!!」
その言葉が落ちた瞬間、父の顔が険しくなった。
さっきまでの怒りとは違う。
店そのものを傷つけられたような顔だった。
かけるも、拳を握りしめる。
りゅうこうは無言で三味線を見た。
はやりの眉も、珍しくきゅっと寄っていた。
父は、ゆっくりと前へ出た。
大きな手が、古い三味線の胴にそっと触れる。
その手つきは、怒っているのに、とても丁寧だった。
父「バカやろう! この駅前には昔ながらの情緒と文化が残ってんでい」
父の言葉に、つむぎは駅前の風景を思い出した。
時計台。
古い商店街。
ラーメン屋、八百屋、魚屋、着物屋。
すぐには気づかなかったけれど、どの店にも、人が暮らしてきた時間があった。
父は、さらに声を強める。
父「代々長い年月をかけて育くんできたもので、ひょうろくだまのてめえらとはわけが違うんでい!」
ひょうろくだま。
意味はよく分からなかったけれど、すごく怒っていることだけは分かった。
ザンスは一瞬だけ眉を動かした。
それでも、すぐに薄い笑みを戻す。
父の言葉は、古い店を守りたい人の言葉だった。
ザンスの言葉は、新しい建物を作りたい人の言葉だった。
どちらも「未来」の話をしている。
でも、見ている未来がまるで違う。
つむぎは、そのことに気づき始めていた。
新しくすることだけが、未来なのだろうか。
古いものを残すことは、未来ではないのだろうか。
しゃみよしの店内に並ぶ三味線たちは、何も言わない。
けれど、父の後ろで静かに、長い時間の証として立っていた。
P23|誇りと伝統|きたねえ手で触んな!!
ザンスは、父の言葉を聞いても笑みを崩さなかった。
むしろ、鼻で笑うように肩をすくめた。
ザンス「赤字続きで廃業寸前。ミーにはホコリとカビの塊にしかみえないザンス!」
つむぎは、胸がちくりとした。
ホコリとカビの塊。
さっきまで三味線の種類を教えてもらい、天神のことを知り、りゅうこうの手に残る糸みぞまで見たつむぎには、その言葉がとても乱暴に聞こえた。
古いものは、ただ汚いものではない。
それは、誰かがずっと使い、直し、守ってきたものだ。
なのに、ザンスはそれを見ようとしない。
ザンスは、棚に置かれていた古い三味線に手を伸ばした。
まるでただの古道具でも触るように、軽い手つきだった。
その瞬間、かけるが動いた。
青いジャージの袖が、するどく走る。
かけるはザンスの細長い手をつかみ、ぎゅっとひねり上げた。
かける「きたねえ手で触んな!!」
ザンスの顔が一気にゆがむ。
ザンス「暴力反対、痛いザンス!!!」
ズラ係長が慌てて一歩前に出ようとした。
しかし、かけるの目を見て止まる。
それほど、かけるの目は本気だった。
父も、はやりも、つむぎも、りゅうこうも、言葉を失っていた。
かけるは、ザンスの手を離さない。
その声は怒っている。
でも、ただ乱暴な怒りではなかった。
守ろうとする怒りだった。
かける「これは代々受け継がれて来た誇りと伝統だ」
その一言に、父の表情がわずかに変わった。
かけるは、いつも父に反発している。
店の赤字を心配し、父の頑固さに怒り、兄のことでは真っ向からぶつかった。
それでも、しゃみよしを軽く見られることだけは許せなかった。
三味線を雑に扱われることだけは、我慢できなかった。
つむぎは、その姿を見て思った。
かける先輩は、三味線から逃げているわけではない。
たぶん、大切すぎるから、素直になれないだけなのだ。
店内に並ぶ三味線たちが、かけるの言葉を静かに受け止めているように見えた。
P24|大人の話だ|ガキ扱いすんな!
ザンスは痛む手を押さえながら、それでも勝ち誇ったように笑った。
口元には、まだ余裕が残っている。
かけるの怒りも、父の職人としての誇りも、ザンスには届いていないようだった。
ザンス「伝統だけでは土地代は払えないザンス」
その言葉に、父の表情がこわばった。
ザンスはさらに畳みかける。
ザンス「そこまで言うなら、その伝統とやらで今すぐ土地代を払うザンス!」
店内に、重たい沈黙が落ちた。
父は何も言わなかった。
言い返せないのではない。
言い返したい言葉はいくらでもあるはずだった。
けれど、土地代、赤字、再開発、立ち退き。
それらは、気合いや意地だけではどうにもならない現実だった。
父の顔に、苦悶の色が浮かぶ。
つむぎは、その表情を見て胸が苦しくなった。
父は、子どもたちの方を見た。
少しだけ、目の色が変わる。
この話に、つむぎたちを巻き込みたくない。
そう思っているのが分かった。
父「おめえらは帰んな。こいつは大人の話だ」
その言葉に、つむぎは何も言えなかった。
確かに、自分たちは子どもだ。
土地代のことも、店の経営のことも、再開発のことも、まだ全部は分からない。
でも、ここにある三味線の音が大切だということは分かる。
かけるが、父の前に出た。
かける「そうやって、また一人で抱えんのかよ!」
父の顔が険しくなる。
父「ガキが口出すな!」
その声は強かった。
けれど、かけるは引かなかった。
父の言葉を正面から受け止め、さらに一歩踏み出す。
かける「ガキ扱いすんな!」
青いジャージの拳が震えていた。
怒りだけではない。
悔しさ。
心配。
そして、父に頼ってほしいという思い。
かけるの声は、店内の三味線たちの間をまっすぐ抜けていった。
父は何か言い返そうとして、言葉を止めた。
親子の間に、また沈黙が生まれる。
ザンスは、その沈黙を楽しむように笑っていた。
しかし、かけるの目はもう、逃げていなかった。
P25|白黒はっきりつけようじゃねえか!!
かけるは、ザンスとズラをまっすぐにらみつけた。
父に守られて引っ込むつもりはない。
大人の話だからと、何も知らないまま帰るつもりもない。
かけるの中で、何かがはっきり決まったようだった。
かける「やいやいてめえら! 黙って聞いてりゃさっきから、合理だのなんだの好き勝手いいやがって!」
店内の空気が、また一気に熱を帯びる。
ザンスは眉を上げた。
ズラは腕を組んだまま、少しだけ身構える。
かけるは拳を握りしめ、言葉を続けた。
かける「どっちが合理的か、子どもでもわかるように白黒はっきりつけようじゃねえか!!」
つむぎは、思わずかけるを見た。
はやりの目が、ぱっと輝く。
りゅうこうも、静かに前を向いた。
勝負。
かけるは、ただ怒鳴っているだけではなかった。
子どもだから分からないと言われるなら、子どもにも分かる形で示せばいい。
それが、かけるの答えだった。
ザンスは、あきれたように笑う。
ザンス「自分達の立場がわかってないザンスねえ! そんなお子様の勝負に付き合うほどヒマじゃないザンス」
その言葉を聞いて、かけるの口元が少しだけ上がった。
挑発するような笑みだった。
かける「するってえと何かい? 天下のトンデモ商事さんは、子どもも納得させる事が出来ずに逃げ出すのかよ?」
ザンスの笑顔がぴくりと引きつった。
ズラも、少しだけ汗を浮かべる。
はやりは、ここぞとばかりに前へ出た。
はやり「非合理ジャン!!」
つむぎも、勇気を出してうなずいた。
りゅうこうも、小さく拳を握る。
三人の抗議は、決して大人を力で押し返すものではなかった。
でも、まっすぐだった。
ザンスとズラは、明らかにたじろいだ。
子どもたちの視線。
かけるの啖呵。
父の沈黙。
そして、店内に並ぶ三味線たち。
そのすべてが、ザンスとズラに向かっている。
ザンスは、メガネを押し上げた。
まだ余裕のふりをしている。
けれど、その額には小さな汗が光っていた。
三味線クラブの子どもたちは、ただの見物人ではなくなった。
しゃみよしを守るための勝負が、今まさに始まろうとしていた。
P26|合理的対決!!|二本勝負の契約書
しゃみよしの店内に、かけるの声が響いた。
子どもだから帰れ。
大人の話だから口を出すな。
そう言われても、かけるは引かなかった。
父がひとりで抱え込んできたもの。
兄の駿が飛び出してまで探しに行ったもの。
そして、つむぎたちがいま本気で向き合おうとしている三味線の音。
それを、合理という言葉だけで片づけられるのが、かけるには我慢ならなかった。
かけるは、ザンスとズラを指さした。
かける「ルールは至って簡単。二本勝負だ」
はやりの目がきらりと光った。
りゅうこうは黙って聞いている。
つむぎは胸の前で手を握った。
勝負。
本当にそんなことで、しゃみよしを守れるのだろうか。
不安はあった。
でも、かけるの声には、根拠のない勢いだけではない何かがあった。
かける「一本目は、つむぎとザンスの頭脳合理的対決。二本目は、かける対ズラのパワー合理的対決。負けた方は潔く諦める」
つむぎは、思わず自分を指さした。
頭脳合理的対決。
その言葉の意味はよく分からない。
でも、どうやら自分が第一戦に出るらしい。
ザンスは、ふふんと鼻で笑った。
ザンス「頭脳にパワー? そんなの負けるはずが無いザンス!」
メガネを押し上げる仕草まで、どこか勝ち誇っている。
その横で、ズラ係長が慌てたように小声で言った。
ズラ「ザンス部長、勝手な事するとBOSSに叱られるズラ!」
BOSS。
その言葉に、つむぎは少し首をかしげた。
ザンスとズラの後ろには、まだ誰かがいるらしい。
けれど、ザンスは聞く耳を持たなかった。
ザンス「ホホホ! 所詮ガキの浅知恵、コテンパンにやっつければOKザンス!」
かけるは、その言葉を待っていたように口の端を上げた。
すばやく紙を取り出し、ザンスの前へ突きつける。
かける「じゃ、契約書にサインしろ!」
つむぎは目を丸くした。
契約書まで用意している。
かけるは勢いだけで動いているように見えて、実はかなり抜け目がない。
ザンスは余裕たっぷりに笑った。
ザンス「ホホホ! 自分でクビを絞めるおバカさん! あとで後悔しても遅いザンス!」
ザンスは内容をほとんど読まずに、さらさらとサインした。
ズラが横で青ざめる。
はやりは「読まなくていいジャン?」と首をかしげる。
かけるは、契約書を受け取ると、にやりと笑った。
その笑顔を見て、つむぎは思った。
もしかして、かける先輩は最初からこの展開を読んでいたのかもしれない。
合理的対決。
その言葉とは裏腹に、しゃみよしの店内は、まるで漫画みたいな熱気に包まれていった。
P27|つむぎVSザンス|頭脳合理的対決
第一戦は、つむぎ対ザンスの頭脳合理的対決。
つむぎは、まだ少し緊張していた。
相手は大人。
しかも、東大卒を名乗る頭脳派のザンス部長。
自分が勝てるのだろうか。
つむぎの手が、胸の前で小さく震えた。
そんなつむぎの横で、かけるが堂々と言う。
かける「クイズ形式で、先に二問先取した方が勝ちだ」
ザンスはメガネを光らせた。
ザンス「ミーは東大卒の頭脳派。逃げるならいまのうちザンス!」
その言葉に、はやりがむっとする。
りゅうこうは黙ったまま、つむぎを見た。
かけるは、つむぎの方をちらりと見た。
その目が、ほんの少しだけ言っていた。
大丈夫だ。
つむぎは、息を吸った。
かけるが右手を上げる。
かける「第一問。三味線の頭脳部分を何という?」
ザンスの顔から余裕の笑みが消えた。
目玉が飛び出しそうになり、口が大きく開く。
ザンス「ナヌ? ざんす??」
それは答えではなかった。
つむぎの中に、さっき父から聞いた言葉がすぐによみがえる。
三味線の頭脳。
糸巻きがあり、音を整える大切な部分。
つむぎは、迷わず声を出した。
つむぎ「天神!」
かける「正解!」
はやりが飛び跳ねそうになる。
りゅうこうの目も、ほんの少し明るくなった。
ザンスは、額に汗を浮かべている。
かけるはすぐに次の問題へ移った。
かける「第二問。この三種の三味線の俗称を答えよ」
父が並べてくれた三丁の三味線。
細く繊細な三味線。
中くらいで落ち着いた三味線。
どっしりとした津軽向きの三味線。
つむぎは、しゃみよしに入ってから聞いた説明を頭の中で並べた。
そして、今度もまっすぐ答える。
つむぎ「細棹、中棹、太棹!」
かける「正解! 第一戦はつむぎの勝ち!」
かけるが手を上げる。
つむぎは驚きながらも、その手に自分の手を合わせた。
ぱん、と小さな音が店内に響く。
ハイタッチ。
その瞬間、つむぎの胸の中に、あたたかいものが広がった。
さっきまで不安だった。
でも、ちゃんと聞いていた。
ちゃんと覚えていた。
そして、自分にも役に立てることがあった。
ザンスとズラは、そろって目玉が飛び出そうな顔をしていた。
はやりが笑い、りゅうこうも小さくうなずく。
第一戦。
つむぎの勝利だった。
P28|見落としてたザンス|契約書の罠
第一戦で負けたザンスは、顔を真っ赤にしてつっかかってきた。
さっきまでの余裕はどこかへ消えている。
ザンス「こんなのインチキざんす!」
店内の空気が、また騒がしくなる。
けれど、かけるは少しも動じなかった。
むしろ、待ってましたとばかりに契約書を机に置く。
かける「てやんでい! テメエの目玉は節穴か? ちゃんと契約書に書いてあらあ!」
ザンスは、慌てて契約書を手に取った。
さっき、自分でろくに読まずにサインした紙だ。
ザンスの目が、すばやく文字を追う。
そして、ある一文で止まった。
ザンス「出題はかけるが行う」
ザンスの肩が、がくりと落ちる。
ザンス「見落としてたザンス」
はやりが、口をぽかんと開けた。
つむぎも、思わず契約書を見る。
かけるは、ただ勢いだけで勝負を持ちかけたわけではなかった。
相手が油断して内容を読まないことまで読んでいた。
まさに、江戸っ子の啖呵と職人の抜け目なさを合わせたような作戦だった。
かけるは、にやりと笑う。
かける「どうでい! 頭脳合理的勝負だろ?」
ザンスは悔しそうに歯を食いしばる。
その横で、ズラ係長が恐る恐る口を出した。
ズラ「だから言ったんだズラ! BOSSに怒られるズラ!」
その言葉に、ザンスはぎろりとズラをにらんだ。
ザンス「うるさいザンス!」
そして、ザンスは指を突きつける。
ザンス「こうなったら二本目パワー勝負で、コテンパンにやっつけるザンス!」
ズラは、自分の出番が近づいていることに気づき、胸を張った。
その体は大きく、腕は太く、見るからに力は強そうだった。
つむぎは、少し不安になる。
頭脳勝負は、かけるの作戦で勝てた。
でも次は、パワー勝負。
相手はズラ係長。
そして、こちらはかける。
かけるは、青いジャージの袖を軽く引き上げる。
その顔には、不安など少しもなかった。
第二戦が、始まろうとしていた。
P29|かけるVSズラ|三味線打ち込み勝負
かけるは、ズラ係長を見上げた。
ズラは大きい。
肩も広く、腕も太く、まるで壁のようだった。
普通の力比べなら、かけるに勝ち目はないように見える。
けれど、かけるはまったくひるまなかった。
かける「二本目パワー勝負は、三味線打ち込み勝負だ」
ザンスはすぐに手を振った。
ザンス「おバカさん! いくら契約書に書いてあっても、その手は喰わないザンス!」
ザンスは、ズラを指さした。
ザンス「ズラは柔道三段、重量あげ二百キロあげるパワー持ち主だが、音楽経験無いザンス! そんなパワー勝負は無効ザンス!」
ズラは、なぜか自慢げに胸を張った。
柔道三段。
重量あげ二百キロ。
たしかに力はすごい。
でも、三味線は力だけで鳴る楽器ではない。
りゅうこうが黙って太棹を見た。
はやりも、少しだけ不安そうにかけるを見る。
かけるは、ザンスの言葉を最後まで聞いてから、びしっと指を立てた。
かける「話は最後まで聞けって! 確かに津軽三味線は打ち込み、打楽器的要素とメロディ要素が絡む難しい楽器だ」
父の目が少しだけ動いた。
かけるの説明は正しかった。
津軽三味線は、弦をはじくだけではない。
バチで胴を叩くように打ち込み、リズムを生み、同時にメロディも作る。
力と技。
打楽器と弦楽器。
その両方が混ざるからこそ、津軽三味線の音は強く、深く、前へ飛ぶ。
かけるは、ズラへ向かって言った。
かける「だから、ズラが先攻で三味線バチで打ち込み。制限時間三分で、糸に一発でも当たればズラの勝ち」
ズラの顔が少し明るくなる。
打ち込み。
パワー。
それなら自分の得意分野だと思ったのかもしれない。
しかし、かけるはさらに続けた。
かける「俺は経験者だから、ズラの後に弾いて、アンタら二人の心を震わす事が出来れば俺の勝ち」
ザンスとズラの顔が同時に固まった。
心を震わす。
それは、力で測れない勝負だった。
かけるは拳を握り、堂々と言い切った。
かける「つまり、お互いに得意分野のパワー勝負って事でどうでい!」
しゃみよしの店内に、熱が走った。
ただ強く叩けばいいわけではない。
ただ速く弾けばいいわけでもない。
三味線の力とは、人の心へ届く音を出すこと。
つむぎは、かけるの横顔を見つめた。
さっきまで、かけるは三味線クラブを突き放していた。
でも今は、その三味線で勝負しようとしている。
かける先輩は、やっぱり三味線の人なんだ。
つむぎは、胸の奥でそう思った。
P30|トンデモーン!|勝利のポーズザンス!
ズラ係長は、三味線バチを見て大きくうなずいた。
その手は分厚く、バチを持つだけで今にも折ってしまいそうに見える。
けれど本人は、すっかりやる気になっていた。
ズラ「打ち込みなら得意ズラ!」
ザンスは、慌てて横から叫んだ。
ザンス「おバカ! 柔道の打ち込みとは違うザンス!」
ズラは一瞬だけ固まった。
どうやら、柔道の打ち込み練習と、三味線の打ち込みを同じものだと思っていたらしい。
はやりが「やっぱり非合理ジャン」と小さくつぶやく。
それでも、ザンスの目がきらりと光った。
表情は悔しそうなのに、その奥で何かを計算している。
ザンスは心の中で考えた。
たしかに、ズラが糸に当てられない可能性はある。
ズラには音楽経験がない。
三味線の繊細な糸に、バチを正確に当てるのは簡単ではない。
だが、その条件なら。
万一ズラが外しても、自分たちの心を震わすことなどあり得ない。
子どもの三味線で、大人二人の心が動くはずがない。
ザンスは、そう考えた。
ザンスは、ズラに向かって目で合図する。
ズラは、その合図を受けて重々しくうなずいた。
そして、次の瞬間。
ザンスとズラが、そろって奇妙な決めポーズを取った。
ザンスは片手を優雅に広げ、もう片方の手でメガネを押し上げる。
ズラは胸を張り、筋肉を見せつけるように腕を曲げる。
あまりにも突然の決めポーズに、店内の全員が目を点にした。
かけるでさえ、一瞬だけ言葉を失った。
つむぎはぽかんと口を開ける。
りゅうこうは、無表情のまま少しだけ目を細めた。
そして、はやりがびしっと指をさす。
はやり「恥ずかしい大人ジャンす!」
ジャンとザンスが混ざってしまった。
けれど、はやりの気持ちは全員に伝わった。
ザンスは、胸を張ったまま言い返す。
ザンス「だまらっしゃい! 勝利のポーズザンス!」
勝負は、まだ始まってもいない。
それなのに、ザンスとズラはすでに勝った気でいる。
かけるは、ようやく表情を戻した。
そして、青いジャージの袖を軽く整える。
その目は、もう笑っていなかった。
三味線を馬鹿にした大人たちに、音の力を見せる。
しゃみよしの誇りを、父の前で証明する。
そして、つむぎたちに、三味線がただの古い楽器ではないことを見せる。
かけるは、静かにバチを見つめた。
次の勝負は、力だけでは勝てない。
音で心を震わせる、本当の三味線勝負だった。
P31|親子そろって、そこんとこヨロシク!!
第二戦、かける対ズラのパワー勝負。
先攻はズラ係長だった。
ズラは三味線を構え、分厚い腕をぐっと曲げて、これでもかというほど筋肉を見せつけた。
ズラ「打ち込みなら得意ズラ!!!!!」
その声だけなら、店の壁が揺れそうな迫力だった。
ズラは大きなバチを握りしめ、三味線の胴へ向かって振りかぶる。
つむぎは思わず息をのんだ。
はやりも、りゅうこうも、かけるも、その動きをじっと見る。
その瞬間、父が沈黙を破った。
父「待ちな! その三味線は三十五万円、バチは十万円の品だ」
ズラの腕が、ぴたりと空中で止まった。
父はさらに、職人の顔で続けた。
父「そのバカヂカラで壊したら、お買い上げいただくんで丁重に扱え!」
ズラの顔から、さっきまでの余裕が消えた。
三十五万円。
バチ十万円。
その数字が、ズラの頭の中でぐるぐる回っているのが分かるほどだった。
かけるはすかさず、懐から契約書を出してにやりと笑った。
かける「そうそう。契約書にも書いてあるから、そこんとこヨロシク!!」
父とかけるが、息ぴったりに手を差し出す。
そして、悪党退治の相棒みたいに、がっちり握手した。
つむぎは目を丸くする。
さっきまで言い合っていた親子とは思えない、見事な阿吽の呼吸だった。
ザンスはハンカチを噛みしめ、悔しそうに震えた。
ザンス「き~~~~! 親子揃ってなんて意地汚いザンショ!!」
ズラの額から、一気に汗が噴き出した。
強く打てば壊れるかもしれない。
弱く打てば糸に当たらないかもしれない。
どちらにしても、さっきまでのように力まかせには振れない。
ズラは口笛を吹いて、何事もなかったようにとぼけようとした。
ズラ「おでの給料じゃ払えないズラ……」
店内に、妙な沈黙が流れた。
第二戦は、始まる前からズラの心を削り始めていた。
P32|ぺちっとな|ズラじゃねえズラ!
ズラは、汗だくになりながら三味線を構えた。
大きな体に、立派な腕。
見た目だけなら、どんなものでも一撃で打ち抜きそうだった。
けれど今、ズラの手は震えていた。
三味線は三十五万円。
バチは十万円。
壊したらお買い上げ。
その現実が、ズラの筋肉よりも重くのしかかっていた。
ズラは目を閉じ、深く息を吸う。
ズラ「柔道でも制限時間いっぱいが勝負ズラ! 集中するズラ!!」
そして、決意の一打を放つ。
三味線の胴へ、バチが近づく。
つむぎも、はやりも、かけるも、りゅうこうも、全員がその手元を見つめた。
音は、驚くほど弱々しかった。
たくましい腕からは想像もつかない、へろへろの空振り。
バチは糸に当たらず、皮の上を情けなくかすめただけだった。
りゅうこうが、無表情のまま、ぽつりと言った。
りゅうこう「ズラ……」
その一言が、ズラの心のど真ん中に刺さった。
次の瞬間、ズラの頭の上のズラが、ぽーんと飛び上がった。
つるりとした頭が丸見えになる。
ズラの顔は、ヤカンが沸騰するみたいに真っ赤になった。
ズラ「ズラじゃねえズラ!」
怒りで力が入ったのか、ズラはもう一度バチを握り直す。
しかし、動揺は隠せない。
二度目の一打も、三の糸には届かなかった。
やはり、糸には当たらない。
皮に弱く触れるだけ。
力があるのに、音にならない。
つむぎは、その様子を見ながら、三味線の難しさを改めて感じた。
三味線は、ただ強く叩けばいい楽器ではない。
力を入れすぎてもだめ。
怖がりすぎてもだめ。
狙ったところへ、きちんとバチを運ぶ技術が必要なのだ。
かけるがにこっと笑い、時計を見た。
かける「ホイ♡ 時間いっぱいです!」
ズラの顔が真っ赤なまま固まった。
ザンスは、ムキ~~~~と叫びながら、ズラをぽかぽか叩く。
ザンス「スカポンタン! ガキに惑わされるからザンス!」
ズラは頭を押さえながら、涙目で耐えていた。
第一戦はつむぎの勝ち。
第二戦の先攻、ズラは失敗。
残るは、かけるの演奏だった。
P33|兄貴が置いてった、オヤジの逸品だ。
ザンスがズラを叩く音が、ようやく止まった。
店内には、少しだけ静けさが戻る。
ズラの打ち込みは、糸に一度も当たらなかった。
勝負は、かけるの番へ移る。
かけるは、静かに一歩前へ出た。
かける「俺の番だな」
その声は、さっきまでのからかうような声とは違っていた。
低く、落ち着いていて、まっすぐだった。
ザンスは、心の中で自分に言い聞かせる。
まんまとガキの作戦にやられた。
たしかに第一戦は負けた。
ズラも糸に当てられなかった。
けれど、まだ勝負は終わっていない。
ザンスは、メガネの奥で目を細めた。
子どもの演奏で、自分たちの心が動くはずがない。
心を震わせることなど、あるわけがない。
ザンス心の声「ミーたちが心打たれる事はないザンしょ」
かけるは、棚の奥から一丁の三味線を取り出した。
胴かけは、かけるの色である藍色。
根緒も深い藍色で結ばれている。
つむぎは、その三味線を見た瞬間、空気が少し変わった気がした。
ただの楽器ではない。
店に並ぶ三味線とは、どこか重みが違う。
父の目が大きく開いた。
父「そいつは……」
父の声は、怒鳴り声ではなかった。
驚きと、懐かしさと、言葉にできない感情が混ざっていた。
かけるは、その三味線を大切に抱えた。
かける「兄貴が置いてった、オヤジの逸品だ」
父は何も言えなかった。
その三味線は、父が作った一本。
そして、駿が世界を旅して、改めて父の偉大さを知ったあと、かけるに託した一本。
父と兄と、かけるをつなぐ音だった。
かけるは、ゆっくりと三味線を構えた。
長い棹の先にある天神。
糸巻きは、正しく三本。
向かって左に一本、右に二本。
三本の糸が、天神から胴へまっすぐ伸びている。
つむぎは、その姿に目を奪われた。
さっきまで乱暴に見えたかけるの動きが、三味線を持った瞬間だけ、驚くほど静かになった。
バチを持つ右手。
棹を支える左手。
視線の先にある天神。
かけるは、もう誰にも茶化させない顔をしていた。
父が見ている。
つむぎたちが見ている。
ザンスとズラも、思わず黙って見ている。
かけるの演奏が、始まろうとしていた。
P34|天神!|兄貴に誓った音
しゃみよしの店内が、静まり返った。
さっきまで騒いでいたザンスも、ズラも、今は言葉を失っている。
かけるは、三味線を構えたまま、まっすぐ前を見た。
そして、右手のバチを握り、左手で棹を支える。
その姿は、つむぎが初めて見る本気のかけるだった。
かけるは、天に向かって指を高らかに掲げた。
店内の光が、まるでその指先へ集まるように見える。
第四話の題名でもある言葉が、ついに響いた。
かける「天神!」
その一言は、ただの決め台詞ではなかった。
三味線の頭脳。
音を整える場所。
そして、ばらばらになりそうな思いを、ひとつにそろえるための言葉。
かけるの胸の中で、兄・駿の声がよみがえっていた。
オヤジの事は頼んだぞ。
三年前、店を飛び出した兄の言葉。
一年ほど前、世界の中で日本の音の価値を知った兄が、もう一度かけるに残した言葉。
かけるは、その言葉をずっと背負っていた。
かける心の声「アニキに誓った。オヤジとこの店は、俺が守る」
次の瞬間、バチが振り下ろされた。
鋭く、深く、力強い一音。
それは、ただ大きな音ではなかった。
胴が鳴り、糸が震え、空気が震えた。
つむぎの胸も、同じように震えた。
津軽三味線の音が、店内いっぱいに広がっていく。
ザンスの資料が、風にあおられたように舞い上がる。
再開発計画書が、紙吹雪みたいに宙を回る。
ズラのズラも、ぽーんと飛んだ。
ズラ「振動ズラァァァ!」
ギャグみたいな光景なのに、音そのものは本物だった。
笑いと迫力が同時に押し寄せてくる。
はやりは口を開けたまま固まり、りゅうこうは目を見開いた。
父は、かけるの音をじっと聞いていた。
その顔は、厳しい職人の顔だった。
けれど、目の奥には、確かに何かが揺れていた。
父が作った三味線。
兄が託した三味線。
かけるが守ろうとする音。
その一音は、しゃみよしの古い柱にも、並んだ三味線にも、つむぎたちの心にも、強く響いていた。
P35|どうでい!|ズラはズレてるジャンす!
かけるの演奏が、最後の一音で止まった。
余韻が、しゃみよしの店内に残る。
三味線の糸はもう鳴っていない。
それでも、耳の奥ではまだ音が続いているようだった。
かけるは、バチを構えたままフィニッシュの姿勢で立っていた。
藍色の胴かけが、店内の光を受けて静かに輝いている。
かけるは、ザンスとズラをまっすぐ見て、にやりと笑った。
かける「どうでい!」
ザンスとズラは、完全に時間が止まったように固まっていた。
ズラのズラは、頭の上で見事にズレている。
目はまん丸。
口は半開き。
さっきまで勝利のポーズをしていた二人とは思えない。
しかし、ザンスは意地でも認めなかった。
冷や汗を流しながら、無理やり平静を装う。
ザンス「こんな演奏、ピクリともしてないザンス」
声は震えていた。
メガネも少しずれていた。
明らかに動揺している。
はやりが、すかさずズラを指さした。
はやり「でもズラはズレてるジャンす!」
ジャンとザンスが混ざった妙な言葉だった。
けれど、その指摘は完璧だった。
ズラは慌てて両手を頭に乗せ、ズレたズラを直そうとする。
その必死な姿に、つむぎは思わず吹き出しそうになった。
りゅうこうも、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
かけるは、勝ち誇るように腕を組んだ。
ザンスは歯ぎしりをした。
悔しさで顔を引きつらせながらも、心のどこかでは分かっている。
かけるの音は、届いてしまった。
三味線の力は、古いだけの飾りではなかった。
人の体も、空気も、心も、動かす力を持っていた。
ザンスは、顔をぐっと近づけるようにして、低くつぶやいた。
ザンス「今日のところは……」
その声には、悔しさがにじんでいた。
完全に負けを認めたわけではない。
けれど、この場ではもう、ザンスにできることはなかった。
しゃみよしを守るための三味線勝負。
その第二戦は、かけるの音が勝ち取った。
P36|撤収ザンス!|江戸っ子頑固おやじの微笑
かけるの一音が、しゃみよしの店内を震わせたあと、しばらく誰も動けなかった。
資料は床に散らばり、ザンスの髪は乱れ、ズラ係長のズラは大きくずれている。
勝負は、もう決まっていた。
ザンスは悔しそうに歯ぎしりしながら、それでも最後の意地で声を張った。
ザンス「撤収ザンス!」
その声を合図に、ザンスとズラは逃げるように店の外へ駆け出した。
さっきまで勝利のポーズを決めていた二人とは思えないほどの慌てぶりだった。
ズラは途中でずれた頭を押さえ、ザンスは鞄と資料を抱え、二人はまるで風に飛ばされる紙くずのように退却していく。
けれど、店の外へ出る直前、ザンスは振り向いた。
冷や汗を浮かべながらも、まだ負けを認めきれない顔だった。
ザンス「だが計画は止まらないザンス。覚えておくザンス!!」
その捨て台詞を残し、ザンスとズラは商店街の向こうへ消えていった。
店に、静けさが戻る。
さっきまでの騒ぎが嘘のように、しゃみよしの中には古い木の匂いと、三味線の余韻だけが残っていた。
つむぎは、まだ胸の鼓動が速いままだった。
はやりは目を輝かせ、りゅうこうは黙ってかけるを見ている。
かけるは、三味線を抱えたまま父と向き合った。
父も、かけるを見ていた。
しばらく、二人は何も言わなかった。
親子なのに、まるで勝負のあとに向かい合う職人同士のようだった。
先に口を開いたのは、かけるだった。
かける「どんなもんでい、ちったあ見直したかよ!」
照れ隠しなのか、いつもより少し声が大きい。
父は腕を組んだまま、ふん、と鼻を鳴らした。
父「バカやろう! あんなもん、まだ全然ひよっこでい」
言葉だけ聞けば、褒めてはいない。
でも、つむぎには分かった。
父の声には、さっきまでの怒鳴り声とは違う響きがあった。
かけるも、それに気づいたのか、少しだけ黙った。
父の口元が、ほんのわずかにゆるむ。
江戸っ子頑固おやじの、不器用な微笑。
それは、かけるの音を認めた笑みだった。
そして、しゃみよしの店内に、親子の間でしか分からないあたたかな空気が流れた。
P37|貸すんじゃねえ。預けるんだ。
ザンスとズラが去ったあと、父は黙って店の奥へ歩いていった。
かけるが少し不思議そうにその背中を見る。
つむぎたちも、息をひそめて待った。
やがて父は、三丁の練習用三味線を抱えて戻ってきた。
どれも新品ではない。
でも、きちんと手入れされている。
胴かけの色は、それぞれ違っていた。
つむぎには黄色。
はやりには桜色。
りゅうこうには深緑。
まるで、三人を待っていたかのような三味線だった。
父は、それらをつむぎたちの前に並べる。
父「お前さん達にこれを託す」
つむぎは、思わず息を止めた。
託す。
その言葉は、「あげる」とも「貸す」とも違って聞こえた。
父は、三味線を見下ろしながら続ける。
父「貸すんじゃねえ。預けるんだ」
つむぎは、そっと聞き返した。
つむぎ「預ける……?」
父は大きくうなずいた。
その顔は、さっきまでザンスたちと渡り合っていたときより、ずっと静かだった。
父「伝統ってのは、預かった人間が次へ渡すもんだ。おまえらが責任以て後輩に繋いでいけ」
その言葉は、つむぎの胸に深く入ってきた。
三味線クラブを作る。
それは、自分たちだけが楽しく弾けばいいということではない。
今ここで受け取った音を、次の誰かへ渡していくこと。
自分たちが先輩になったとき、また誰かにこの音を渡すこと。
それが、伝統をつなぐということなのだ。
はやりは、目をきらきらさせて両手を握った。
はやり「シャビ!! 三味線クラブが伝統になるジャン……!」
はやりの言葉は、少しだけ勢いがありすぎた。
でも、その気持ちは店内の全員に伝わった。
りゅうこうは、深緑の胴かけの三味線を静かに見つめている。
つむぎは、黄色の胴かけの三味線へそっと手を伸ばした。
そのとき、父が低い声で言った。
父「ただし、条件がある」
つむぎたちの背筋が、ぴんと伸びた。
伝統を預かるには、条件がある。
その重みを、三人は初めて本当の意味で感じていた。
P38|天神のようにな。|まとめ役かける
父は、三味線を見つめる三人から視線を移した。
その先にいたのは、かけるだった。
かけるは、まだ少しだけ勝負の熱を残した顔で立っている。
父は、まっすぐかけるを見た。
父「かける。おめえがこいつらの面倒見ろ」
かけるの目が、大きく開いた。
かける「な、なんで俺が!」
その反応は、つむぎたちにも分かりやすいほど動揺していた。
さっきまでザンスやズラを相手に堂々と啖呵を切っていた人とは思えない。
父は、そんなかけるを見ても表情を変えなかった。
父「こいつらにゃ、まとめ調整役が必要だ。天神のようにな」
天神。
つむぎは、その言葉に反応した。
三味線の頭脳。
糸巻きがあり、音をそろえる大切な部分。
父は、かけるにその役目を任せようとしているのだ。
つむぎたちは、かけるを見る。
はやりは期待に満ちた顔。
りゅうこうは静かな目。
つむぎは、不安と安心が混ざったような気持ちだった。
かけるは、父の言葉を聞いて一瞬だけ黙った。
そして、すぐに顔を赤くしてそっぽを向く。
かける「バッ、バカやろう、柄にもなくキザな事言うなって!」
父は、何も言わずに少しだけ口元をゆるめた。
かけるは照れ隠しのように頭をかき、しばらく黙っていた。
でも、つむぎたちに向き直ったとき、その目はもう逃げていなかった。
青いジャージの胸を軽く張り、かけるは三人を見る。
かける「……半端だったら、俺が叩き直すからな」
その言葉は、少し怖かった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
本気で向き合ってくれる人の言葉だったからだ。
つむぎは、小さくうなずいた。
はやりは嬉しそうに笑った。
りゅうこうも、静かに目を伏せる。
かける先輩が、三味線クラブのまとめ役になる。
天神のように、みんなの音をそろえる人になる。
つむぎはその瞬間、三味線クラブが本当に動き出す音を聞いた気がした。
P39|四人そろったジャン!|三味線クラブ成立
黄色、桜色、深緑。
三丁の練習用三味線が、つむぎたちの腕に渡った。
そして、かけるは兄から託された藍色の三味線を抱えている。
三味線がそろった。
仲間もそろった。
でも、つむぎはまだ信じきれないように、かけるを見上げた。
つむぎ「じゃあ……入ってくれるの?」
その声は、小さかった。
けれど、ずっと聞きたかった言葉だった。
かけるは、少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らす。
そして、いつもの江戸っ子口調で言った。
かける「三味線も仲間も揃ったなら、やるっきゃねえだろ!」
その瞬間、はやりが飛び跳ねるように両手を上げた。
はやり「四人そろったジャン!」
つむぎの顔にも、ようやく笑顔が広がった。
最初は、音楽が苦手だった。
三味線の音に引き寄せられて、音楽室の前で立ち止まった。
一音を鳴らして、もう一回鳴らしたいと思った。
はやりが背中を押してくれて、りゅうこうが仲間になって、稽古場を探して、かけるにたどり着いた。
そして今、四人目の仲間が目の前にいる。
りゅうこうは、静かに三味線を抱えたまま言った。
りゅうこう「……チリたら!」
その一言に、はやりが笑い、つむぎも笑った。
かけるは「なんだその返事」と言いかけて、少しだけ口元をゆるめる。
夕方。
四人は、三味線を抱えて澄美田小学校の校門に立っていた。
空は茜色に染まり、校舎の窓がやわらかく光っている。
つむぎ、はやり、りゅうこう、かける。
四つの影が、校門の前に並ぶ。
背中にはランドセル。
腕には三味線。
まだ、音はそろっていない。
まだ、弾き方も分からないことだらけ。
でも、三味線クラブは、ここから始まる。
P40|次回予告|第五話「しゃみり。」
ついに、すみみだ小学校に三味線クラブが誕生した。
つむぎ、はやり、りゅうこう、かける。
四人の手には、それぞれの三味線。
そして、音楽室には新しい一歩を踏み出そうとする空気が満ちていた。
はやりは、三味線を抱えて元気いっぱいに叫ぶ。
はやり「ついに三味線クラブSTARTジャン!!」
つむぎも三味線を構えてみる。
でも、すぐに首をかしげた。
手にはバチ。
目の前には三本の糸。
いざ始めようとすると、分からないことが一気にあふれてくる。
つむぎ「あれ?? バチってどう持つんだっけ??」
その言葉を聞いて、はやりが自信満々に前へ出た。
はやり「まっかせなさいジャン!」
はやりは、勢いよくバチを握る。
気合いだけは完璧だった。
しかし、りゅうこうが無表情で一言。
りゅうこう「全然ダメ」
はやりの笑顔が固まる。
つむぎは慌て、りゅうこうは静かに三味線を見ている。
そして、かけるの声が音楽室に響いた。
かける「あ~~~もう! てめえら! 何べん言えばわかるんだよ!」
はやりは、きょとんとした顔で手を上げる。
はやり「初めて聞くジャン!!」
その一言に、つむぎも思わずうなずきそうになった。
けれど、かけるはもう止まらない。
バチの持ち方、構え方、三味線の扱い方。
三味線クラブの初練習は、最初から大騒ぎの予感だった。
かける「つべこべ言ってんじゃねえ! 次回も絶対みてくれよな!」











