2話それ楽しそうジャンを読む シャミる!漫画版全話もくじ シャミる!アニメ版 シャミる!サントラ
第3話登場人物紹介用
![]() つむぎ主人公三味線クラブづくりに奔走中 | ![]() はやり つむぎの大親友。ムードメーカー | ![]() りゅうこう 冷静 無口、祖母は三味線弾き | ![]() かける 江戸っ子 男勝り喧嘩早が情に厚い |
![]() りゅうこう祖母 三味線長屋長唄に親しむ | ![]() 吹奏楽クラブ顧問 厳しく暖かい | ![]() 丹仁野先生 つむぎ達の4年3組担任 |
第3話チリたら漫画版 たてスクロールで読めます。







































2話それ楽しそうジャンを読む シャミる!漫画版全話もくじ シャミる!アニメ版 シャミる!サントラ
第3話登場人物紹介用
![]() つむぎ主人公三味線クラブづくりに奔走中 | ![]() はやり つむぎの大親友。ムードメーカー | ![]() りゅうこう 冷静 無口、祖母は三味線弾き | ![]() かける 江戸っ子 男勝り喧嘩早が情に厚い |
![]() りゅうこう祖母 三味線長屋長唄に親しむ | ![]() 吹奏楽クラブ顧問 厳しく暖かい | ![]() 丹仁野先生 つむぎ達の4年3組担任 |
第3話チリたら漫画版 たてスクロールで読めます。






































漫画版では描き切れなかった細かい部分まで文章で読み解く小説版。
各ページタイトルをクリックすると、小説版本文が開きます。
すみみだ小学校4年3組のつむぎは、ある日、音楽室で開かれた三味線体験教室に参加した。
それまで音楽が苦手だったつむぎにとって、三味線は少しこわいものだった。うまくできなかったらどうしよう。みんなに笑われたらどうしよう。そんな不安で胸がいっぱいだった。
けれど、初めてバチを持ち、三味線の弦に触れた瞬間、つむぎの中で何かが変わった。
ベン、と鳴った、たった一音。
上手いかどうかなんて、まだわからない。曲になっていたわけでもない。それでも、その音は確かにつむぎの胸に残った。
その後、つむぎは三味線を弾く人が少なくなっていることを知る。
この音が、なくなってしまうかもしれない。
そう思った時、つむぎの中に小さな決意が生まれた。
「三味線クラブを作りたい」
親友のはやりは、その言葉を聞いた瞬間、目を輝かせた。
「それ、楽しそうジャン!」
こうして、つむぎとはやりの“シャミる仲間募集作戦”が始まった。
けれど現実は甘くない。三味線クラブと言っても、すぐに仲間が集まるわけではなかった。声をかけても、笑われたり、流されたり、うまく伝わらなかったり。
そんな中、二人はついにたどり着く。
4年2組に、三味線を弾く男の子がいるらしい。
名前は、りゅうこう。
無口で、何を考えているのかわからない、深緑色の空気をまとったような男の子だった。
つむぎとはやりは、三味線クラブ三人目の仲間として、りゅうこうに声をかけることにした。
しかし、その出会いは、予想以上に手ごわいものになる。
放課後の廊下は、帰り支度をする子どもたちの声で少しざわついていた。
教室のドアが開く音。ランドセルの金具が鳴る音。誰かが階段の方へ走っていく足音。
その中を、深緑色のパーカーを着たりゅうこうが、ひとり静かに歩いていた。
表情は変わらない。目線もまっすぐ前を向いたまま。まるで、廊下の音が全部、自分とは関係ないもののようだった。
その正面に、はやりが勢いよく回り込んだ。
「こんにちは!! りゅうこう君!」
声は明るく、笑顔は全開。知らない人が見たら、まるで昔から仲良しだったかのような勢いだった。
つむぎは少し後ろで、胸の前に手をそろえながら様子を見守った。
りゅうこうは、止まらなかった。
聞こえていないのかと思うほど、自然に、すたすたと横を通り過ぎていく。
「……え?」
はやりとつむぎの目が、同時に点になった。
一瞬の沈黙。
はやりは自分の手を見た。つむぎの顔を見た。それから、りゅうこうの背中を見た。
「……今、わたし透明だった?」
つむぎは困ったように笑うしかなかった。
けれど、はやりはそこで終わらない。
もう一度、りゅうこうの前へ回り込む。
「いよっ! 三味線イケメン男子!! 渋いね!!」
はやりの声は、さっきよりもさらに大きかった。
りゅうこうは、またしても止まらなかった。
目も合わせない。うなずきもしない。怒りもしない。ただ、静かに横を通り過ぎていく。
すたすた。
廊下に残されたのは、笑顔の形のまま固まったはやりと、どう声をかけていいかわからないつむぎだけだった。
はやりのこめかみが、ぴくりと動いた。
さっきまでの明るい笑顔はどこへやら。ほっぺたをふくらませ、拳を握りしめ、りゅうこうの背中に向かって叫ぶ。
「おいコラ!! こんな可愛い女子をスルーとは、なにごとジャン!!」
つむぎは慌てて、はやりの袖を引いた。
「は、はやり、声大きいよ……!」
けれど、りゅうこうは振り向かなかった。
廊下の向こうで、ただ静かに歩き続けている。怒るでもなく、驚くでもなく、まるで風が通り過ぎたくらいの反応だった。
その無反応が、はやりにはさらにこたえた。
「ぐぬぬ……あの無音男子め……!」
はやりは悔しそうに拳を震わせた。
つむぎは、そんなはやりを見ながら、少しだけりゅうこうのことを考えていた。
りゅうこうは、ただ冷たいだけなのだろうか。
それとも、声をかけられても、どう返せばいいのかわからないだけなのだろうか。
つむぎは小さく息を吸って、はやりに言った。
「今はきっと……事故のこととか、サッカーのこととか、まだ引きずってるんだよ」
はやりの怒った顔が、少しだけゆるんだ。
「……そっか」
つむぎはうなずいた。
「だから、いきなり押しすぎない方がいいんじゃ……」
その言葉を聞き終わる前に、はやりはぱっと顔を上げた。
「よし! 明日また突撃ジャン!!」
つむぎは思わず、肩を落とした。
「聞いてた!?」
それでも、はやりの目はきらきらしていた。
りゅうこうの心の扉は、まだ一ミリも開いていない。
でも、はやりはもう次の作戦を考え始めていた。
次の日の放課後。
はやりは、朝から妙に自信満々だった。
「今日は作戦があるジャン」
そう言って取り出したのは、タブレットだった。
画面には、津軽三味線を弾く奏者の動画が映っている。バチが鋭く振り下ろされ、弦がはじけ、画面越しでも迫力が伝わってきた。
はやりは、りゅうこうが廊下に出てくるタイミングを見計らい、タブレットを両手で掲げた。
「見よ! これが三味線のカッコよさジャン!」
つむぎも横で、少し緊張しながら画面を支える。
「りゅうこう君、こういう演奏……好きかなって」
りゅうこうは、ちらりとだけ画面を見た。
本当に、ほんの一瞬だった。
そして何も言わず、そのまま歩き続けた。
「……今、見たジャン!」
はやりが目を輝かせた瞬間、背後から静かな声がした。
「歩きタブレット禁止。関係ない動画閲覧禁止。学校のルールを守りましょうね」
先生だった。
はやりは、全身に雷が落ちたような顔になった。
「シャビッ!! 作戦失敗ジャン!」
つむぎはぺこりと頭を下げた。
「す、すみません……」
タブレット作戦は、一瞬で終了した。
けれど、はやりは切り替えが早い。
廊下の少し先で、またりゅうこうの前へ回り込む。
今度はつむぎが、できるだけやさしい声で話しかけた。
「この学校に三味線クラブができたら……どうかな?」
はやりもすぐに続く。
「三味線やってる男子なら、ほっとけないはずジャン!」
りゅうこうは、少しだけ立ち止まったように見えた。
つむぎの胸が、期待で小さく跳ねる。
でも、次の瞬間。
りゅうこうは、また何も言わずに歩き出した。
すたすた。
はやりはその場に崩れ落ちた。
「シャビ~ん! ほっとかれたジャン!!」
つむぎは、困ったように笑うしかなかった。
「やっぱり……簡単にはいかないよね」
三味線クラブへの道は、思ったよりもずっと遠そうだった。
その日の帰り道、はやりは廊下の真ん中で腕を組んだ。
表情は真剣そのもの。まるで、大事件に挑む名探偵のようだった。
「顔尻敵を知る作戦だ!」
つむぎは一瞬、言葉の意味を考えた。
顔。尻。敵。
どこからツッコめばいいのかわからない。
つむぎは人差し指を立てて、できるだけ落ち着いて言った。
「顔でも尻でもないよ。『彼を知り己を知れば』だよ」
はやりは、はっとした顔になった。
「シャビッた……!」
けれど、すぐに表情を引き締める。
はやりの目が、りゅうこうの歩いていった廊下の先を見つめた。
「あやつ、何を考えとるのかサッパリわからんジャン」
つむぎも、同じ方向を見る。
りゅうこうは、怒っているわけではなさそうだった。嫌がっているとも少し違う。けれど、こちらに近づこうとはしない。
聞こえているのに、答えない。
それが一番、難しかった。
「でも、勝手に調べるのは……」
つむぎは不安そうに言った。
人には、人の事情がある。
知りたいからといって、勝手に踏み込んでいいわけではない。
けれど、はやりは胸を張った。
「尾行ではない。観察ジャン!」
その言葉と同時に、はやりの周りに星が飛んだように見えた。
つむぎは小さくため息をつく。
「それ、たぶん同じだよ……」
こうして、つむぎとはやりの新しい作戦が決まってしまった。
りゅうこうをもっと知るための、りゅうこう探偵団。
ただし、つむぎの心の中には、小さな不安が残っていた。
りゅうこう君は、本当にそれを望んでいるのかな。
その答えは、まだ誰にもわからなかった。
放課後の廊下は、昼間のにぎやかさが少しだけ遠のいていた。
教室の中からは、帰り支度をする子どもたちの声が聞こえる。ランドセルの金具が鳴る音、椅子を引く音、誰かが「また明日」と言う声。
その中で、4年2組の前だけが、妙にあやしかった。
廊下の柱のかげに、二つの小さな影があった。
ひとりは、黄色い布を頭からかぶったつむぎ。もうひとりは、桜色の布を巻いたはやり。
二人とも、顔の半分を布で隠し、まるで忍者のつもりだった。
ただし、赤いランドセルは丸見え。黄色とピンクの布も、夕方の廊下ではむしろ目立っていた。
はやりは胸を張り、小声のつもりで言った。
「忍者は張り込みが基本ジャン!」
つむぎは、両手で布の端を押さえながら、不安そうにあたりを見回した。
「ねえ、はやり……これ、かえって目立つんじゃ……」
すれ違った下級生が、二人をちらっと見てから、見なかったことにして去っていく。
つむぎの背中に、冷たい汗が流れた。
けれど、はやりはまったく動じなかった。
むしろ、きらりと目を光らせる。
「忍者とは忍ぶもの。つまり、これは身も心も忍んでるジャン!」
「うん……言葉だけはそれっぽいけど……」
つむぎが言い終わる前に、背後からやさしい声がした。
「あら、つむぎさん、はやりさん。変な格好してどうしたの?」
二人は同時に、びくっと肩を跳ねさせた。
振り向くと、担任の先生が書類を抱えて立っていた。先生は怒っているわけではなく、むしろ少し笑いをこらえているようだった。
はやりは一瞬で姿勢を正した。
そして、わざと低い声を出す。
「拙者、そのような怪しい者ではござらん」
つむぎは、布の下で小さくため息をついた。
「怪しさが増したよ……」
先生はとうとう、くすっと笑った。
つむぎは顔を赤くし、はやりはなぜか誇らしげだった。
りゅうこうを知る作戦は、始まる前からだいぶ目立っていた。
4年2組の教室の戸が、静かに開いた。
出てきたのは、りゅうこうだった。
深緑のパーカーに、黒いランドセル。表情は今日も変わらない。誰かと話すでもなく、急ぐでもなく、ただ自分の歩幅で廊下を歩き出す。
そのすぐ後ろで、はやりの目が光った。
「来たジャン」
「声、大きいよ……」
つむぎはあわてて口元を押さえた。
二人は、りゅうこうのあとを追った。
抜き足。
差し足。
そして、はやりが勝手に名付けた、しゃみり足。
はやりは忍者になりきっていた。片手を前に伸ばし、もう片方の手を後ろに引き、妙に大げさな姿勢で廊下を進む。
つむぎはその後ろで、小さくなりながらついていった。
「抜き足、差し足、しゃみり足ジャン!」
「それ、絶対ふつうに歩いた方が目立たないよ……」
廊下の角に差しかかったときだった。
りゅうこうが、ふいに立ち止まった。
そして、ほんの少しだけ振り返った。
その目は、二人を見ていた。
はやりとつむぎの体が、一瞬で固まった。
シャビッ!!
まるで石像になったみたいに、二人は動けなくなった。
つむぎは、心の中で叫んだ。
見つかった。完全に見つかった。
はやりも、目をまん丸にしたまま、息を止めている。
けれど。
りゅうこうは、何も言わなかった。
怒るでもない。
驚くでもない。
不思議がるでもない。
ただ、また前を向き、そのまま歩き出した。
その背中は、まるで「そこに二人がいることは知っている。でも、特に問題ではない」と言っているようだった。
はやりは、震える声でつぶやいた。
「シャビッ! 見つかったのに無反応……強敵ジャン」
つむぎは、固まったまま小さくうなずいた。
りゅうこうは、やっぱりよくわからない。
でも、そのよくわからなさが、つむぎには少しだけ気になり始めていた。
りゅうこうのあとを追っているうちに、景色が少しずつ変わっていった。
学校の白い廊下ではなく、夕焼けに染まった町。
細い路地に、古い店先。果物屋の木箱。自転車のベル。どこかの家からただよう夕ごはんの匂い。
すみみだ商店街は、新しいビルばかりの町とは少し違っていた。
昔からそこにあるものが、今もまだ息をしているような場所だった。
りゅうこうは、その商店街の奥にある長屋の前で足を止めた。
木の戸が開き、白髪をきれいに結ったおばあさんが顔を出す。
「おかえり、りゅうこう」
りゅうこうは、ほんの少しだけ頭を下げた。
声は出さなかった。
でも、おばあさんはそれだけで十分わかっているように、やさしく笑った。
物陰から見ていたつむぎは、小さくつぶやいた。
「あれが……おばあさんかな」
はやりは、いつもの勢いを少しだけ引っこめていた。
長屋の中から、畳の匂いと、古い木の匂いがした。
そして、部屋の奥に、一本の三味線があった。
白い胴。細く長い棹。三本の糸。
夕方の光を受けて、静かにそこに立っている。
はやりの目が大きく開いた。
「あっ、三味線……!」
つむぎも息を止めた。
第1話で初めて触れた三味線とは、また違う空気があった。
それは、誰かが大切にしてきた音の道具だった。
けれど、はやりはすぐに調子を取り戻す。
「どうせあいつのことだから、下手っぴに決まってるジャン」
「勝手に決めつけちゃダメだよ」
つむぎが小声で止める。
それでも、はやりはこぶしを握った。
「下手なら明日、クラブ練習に強制参加ジャン!」
「強制もダメだよ!」
つむぎはあわてて両手を振った。
そのとき、部屋の奥で、りゅうこうが三味線の前に座った。
夕焼けの町の音が、少しずつ遠くなる。
はやりの口も、つむぎの口も、自然と閉じた。
何かが、始まろうとしていた。
畳の上に座ったりゅうこうは、さっきまでと同じりゅうこうではなかった。
無口で、何を考えているのかわからなくて、はやりの言葉にもほとんど反応しない男の子。
その印象が、三味線を手にした瞬間、静かにほどけていく。
りゅうこうは、三味線の胴を膝の上に置いた。
左手が棹に添えられる。
右手がバチを持つ。
背筋が、すっと伸びた。
それだけで、部屋の空気が変わった。
つむぎは、物陰から見ているだけなのに、自分の姿勢まで正したくなった。
おばあさんは、少し離れたところで静かに見守っていた。
その顔には、心配と信頼が同じくらい混ざっている。
「今日も、音出しは少しだけだが、いいかい?」
りゅうこうは、何も言わなかった。
ただ、小さくうなずいた。
そのうなずきは、いつもの無反応とは違っていた。
ちゃんと聞いている。
ちゃんとわかっている。
そして、ちゃんと弾くつもりでいる。
つむぎは、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
はやりも、もう冗談を言わなかった。
二人は息をのむ。
部屋の中で、りゅうこうの右手がゆっくり動いた。
大きな三角形のバチが、三本の糸へ向かっていく。
まだ、音は鳴っていない。
それなのに、つむぎにはもう聞こえる気がした。
これから生まれる音が、ただの練習音ではないこと。
りゅうこうが、言葉の代わりに何かを出そうとしていること。
バチの先が、弦のすぐそばで止まった。
部屋の中の時間まで、止まったようだった。
一音だった。
たった一音。
けれど、その音が鳴った瞬間、つむぎには部屋の壁が消えたように感じられた。
夕焼けの光が、音に押されるように広がっていく。
畳の部屋も、古い長屋も、すみみだ商店街の細い道も、全部がその音の中に入っていく。
強い音だった。
でも、乱暴ではなかった。
大きいのに、耳をふさぎたくならない。
むしろ、もっと先まで追いかけたくなる音だった。
りゅうこうの左手が、棹の上を細かく動いた。
指が糸を押さえ、はなし、また押さえる。
その動きは速いのに、あわただしくない。
まるで、音がどこへ行きたいのかを、りゅうこうだけが知っているみたいだった。
右手のバチが、ふたたび弦へ向かう。
手首の角度も、指の支え方も、迷いがない。
力はある。
でも、力まかせではない。
バチが糸に触れるたび、音は跳ね、すべり、走った。
つむぎは、目を離せなかった。
はじめて三味線に触れた日のことを思い出した。
あの時、自分の手から鳴った音は、小さくて、少し頼りなかった。
でも今、りゅうこうの音は違う。
小さな音が一歩を踏み出す音だとしたら、りゅうこうの音は、もう走り出していた。
つむぎは、思わずつぶやいた。
「……音が、走ってる」
隣のはやりは、口を開けたまま固まっていた。
さっきまで「下手っぴに決まってるジャン」と言っていたはやりが、何も言えない。
いや、ようやく出てきた言葉も、いつもの勢いとはまるで違っていた。
「……下手っぴどころか……」
その先は、言葉にならなかった。
りゅうこうは、二人の反応を見ていない。
ただ、三味線を見ていた。
ただ、音の行き先を見ていた。
そして、ほんの短くつぶやいた。
「……チリたら」
それが技の名前なのか、音の感じなのか、りゅうこうだけの言葉なのか、つむぎにはまだわからない。
けれど、その言葉は、音と一緒に胸の中へ残った。
チリたら。
第三の仲間は、言葉ではなく音で現れた。
夕焼けのすみみだ川は、金色に光っていた。
水面には、ゆっくりと流れる雲の色が映っている。学校帰りのざわめきも、遠くの車の音も、少しだけやわらかく聞こえた。
つむぎは川沿いの手すりにもたれたまま、しばらく黙っていた。
昨日、りゅうこうの家で聞いた三味線の音が、まだ耳の奥に残っている。
一音だけで空気が変わった。
バチが弦に当たった瞬間、音がまっすぐ走った。りゅうこうの指は迷わず動いて、音はまるで生き物みたいに跳ねた。
あんなふうに弾ける子が、初心者ばかりの三味線クラブに入ってくれるのだろうか。
つむぎは小さく息を吐いた。
「りゅうこう君、あんなに上手いなら……初心者の三味線クラブには入らないかも」
すると、隣にいたはやりが、ぎゅっと拳を握った。
「シャビ? 逆ジャン!」
「逆?」
つむぎが顔を上げると、はやりの目は夕焼けよりも強く光っていた。
「あいつが入れば、三味線クラブは本物になるジャン!」
それは、とてもはやりらしい答えだった。
不安なことを数えるより、必要な理由を見つける。できないかもしれないと考えるより、できたらすごいと信じる。
つむぎは、思わず少し笑った。
「はやりらしいね」
「でしょ!」
はやりは胸を張ったあと、すぐに右手を差し出した。
つむぎも、その手を見つめた。
りゅうこうを無理やり連れてくるのではない。ちゃんと気持ちを伝える。三味線クラブを作りたいことも、りゅうこうの音が必要だと思ったことも。
つむぎは、はやりの手を握った。
「絶対、りゅうこうを仲間にするジャン!」
「うん。ちゃんと、気持ちを伝えよう」
二人の手の向こうで、すみみだ川が夕日にきらめいた。
その光は、まだ始まったばかりの三味線クラブを、そっと照らしているようだった。
翌日。
学校の廊下に、いつものように静かな足音が響いていた。
りゅうこうは、昨日と同じように、誰とも話さずに歩いている。
けれど、今日のつむぎとはやりは、昨日までとは少し違っていた。
ただ声をかけるだけではない。
りゅうこうの音を聞いた。りゅうこうの三味線を知った。そのうえで、もう一度、向き合う。
はやりは大きく息を吸うと、りゅうこうの前へ飛び出した。
「昨日の演奏、カッコよかったジャン!」
りゅうこうは無表情のまま、ほんの少しだけ目を動かした。
その小さな反応を、つむぎは見逃さなかった。
つむぎも一歩前に出る。
「すごく……引きつけられた」
りゅうこうの足が、止まった。
廊下の空気が、少しだけ変わる。
はやりも、つむぎも、息をひそめた。
りゅうこうは、横を向いたまま、短く言った。
「……チリたら!」
それは、とても短い言葉だった。
でも、りゅうこうが二人に向けて初めて返した、はっきりとした反応だった。
はやりの目が、ぱっと輝いた。
「え? チリたら? ごちそうしてくれるの?」
その瞬間、つむぎはあわてて両手を振った。
「食べ物じゃないってば。たぶん三味線の技のことだと思う」
「えー、チリたらって、なんかおいしそうジャン」
「たしかに名前はおいしそうだけど……」
つむぎは少し考えながら、昨日見たりゅうこうの手元を思い出した。
バチで打つ音。
弦をすくうような動き。
指で弾く細かい音。
それらが一つにつながったとき、りゅうこうの音は、ただの一音ではなくなっていた。
「チリたら」は、きっと、りゅうこうにとって大事な音なのだ。
口下手なりゅうこうが、自分の気持ちを言葉にしようとして、ようやく出した一言。
つむぎはそう感じた。
「チリたら!」は、りゅうこうの口癖で、口下手な彼の真意はまだはっきりとは分かりません。
けれど、三味線には「打つ」「スクう」「弾く」といった技があります。
それらが三技一体に集約された、三味線らしい代表的な技の一つとして、つむぎは受け止めました。
りゅうこうの「チリたら!」は、ただの音の名前ではなく、彼なりの三味線語なのかもしれません。
「シャビ? そんな声してたんだ! シブいジャン!」
はやりは、にやにやしながらりゅうこうの顔をのぞきこんだ。
さっきまで何を言っても無反応だったりゅうこうが、初めて言葉を返した。
それだけで、はやりにとっては大事件だった。
けれど、りゅうこうはそれ以上何も言わなかった。
いつものように表情を変えず、すっと向きを変えて、また廊下を歩き出す。
その背中は、やっぱり少し遠い。
はやりは肩をすくめた。
「うーん、相変わらずの塩対応ジャン」
でも、つむぎは笑っていた。
ほんの少しだけ、胸の中があたたかくなっていた。
「相変わらず塩対応だね。でも……初めて、口きいてくれた」
その言葉を口にすると、つむぎの中で、小さな灯りがともったような気がした。
無視されていると思っていた。
届いていないと思っていた。
けれど、そうではなかった。
りゅうこうは、聞いていた。
そして、ほんの一言だけど、返してくれた。
はやりは腕を組み、なぜか名探偵のようにうなずいた。
「うむ。彼の心の糸口は開けた!」
「糸口……三味線だけに?」
つむぎが少し照れながら言うと、はやりの目がぱっと輝いた。
「シャビ?? 今の上手いジャン!」
「え、そうかな」
「つむぎ、だんだんシャミってきたジャン!」
二人は廊下の真ん中で、こっそり笑い合った。
まだ、りゅうこうが仲間になったわけではない。
まだ、三味線クラブができたわけでもない。
それでも、昨日より一歩だけ近づいた。
その一歩が、つむぎにはとても大きく感じられた。
放課後。
りゅうこうの家の座敷には、やわらかな西日が差しこんでいた。
畳の上には、三味線のケースが開かれている。
りゅうこうは黙って座り、祖母と一緒に三味線の準備をしていた。
祖母は、やさしい手つきで布を動かす。
三味線の胴を拭く音は、とても静かだった。
まるで、これから鳴る音を大切に迎えるための時間のようだった。
そのころ、窓の外では。
つむぎとはやりが、そっと顔を出していた。
「今日も来ちゃった……」
つむぎは少し申し訳なさそうに言った。
毎日来るのは、さすがに迷惑かもしれない。
そう思いながらも、足は自然とここへ向いてしまう。
はやりは、窓枠に手をかけて、きらきらした顔でうなずいた。
「シャミる仲間の観察ジャン!」
「観察って言い方、ちょっと怪しいよ……」
二人の気配に、祖母はすぐ気づいた。
祖母は窓の方をちらりと見て、それからりゅうこうにやさしく言った。
「あの子達は毎日のように来てくれてるけど、友だちじゃないのかい?」
りゅうこうは答えなかった。
ただ、ぼんやりと外を見る。
窓の向こうには、つむぎとはやりがいた。
目が合った瞬間、はやりは元気いっぱいに手を振った。
つむぎも、少し遠慮がちに、小さく手を振る。
二人とも、全力で「友だちです」と伝えようとしている。
りゅうこうは、少しだけ二人を見た。
それから、すぐに首を横に振った。
「シャビ~ン! 否定が早いジャン!!」
はやりの悲鳴が、窓の外で跳ねた。
つむぎは苦笑いしながらも、りゅうこうの横顔を見つめた。
否定は早かった。
けれど、りゅうこうはもう、二人を完全に見ないふりはしていない。
ほんの少しだけ、気にしている。
それだけでも、つむぎには前に進んでいるように思えた。
翌日。
つむぎとはやりは、またりゅうこうの後を追っていた。
今度こそ、ちゃんと話そう。
そう思っていたのに、りゅうこうは相変わらずすたすたと歩いていく。
校門の前まで来たときだった。
二人の前に、淡い若草色の着物を着たおばあさんが、そっと立っていた。
りゅうこうの祖母だった。
つむぎは、思わず足を止めた。
「あ……おばあさん」
勝手に家までついて行って、毎日のようにのぞいていた。
怒られるかもしれない。
つむぎの胸が、きゅっと小さくなる。
けれど、祖母は怒っていなかった。
むしろ、やわらかく笑っていた。
「いつも、あの子のためにありがとうね」
その言葉に、つむぎは目を丸くした。
はやりは、少し照れたように頭の後ろへ手をやった。
「いやあ、それほどでも……」
ちょっと得意げな顔をしている。
つむぎはあわてて首を振った。
「そんな……勝手につけまわしてるだけですから……」
本当のことだった。
友だちになれたわけではない。
りゅうこうが三味線クラブに入ると言ったわけでもない。
ただ、気になって、放っておけなくて、毎日ここまで来てしまっただけだった。
祖母は、そんなつむぎの正直さを責めなかった。
やさしい目で、二人を見つめる。
「それでも、あの子を気にしてくれる人がいるのは、ありがたいことさ」
その言葉は、春の日差しのようにあたたかかった。
つむぎは、はじめて気づいた。
りゅうこうは、ただ一人で三味線を弾いていたわけではない。
その背中を、ずっと見守ってきた人がいる。
そして、その人はきっと、りゅうこうが誰かと一緒に音を出す日を待っている。
つむぎは、胸の中で小さく決めた。
りゅうこう君を、無理に連れてくるんじゃない。
りゅうこう君が、自分から音を出したくなる場所を作りたい。
そのために、ちゃんと話そう。
ちゃんと、気持ちを伝えよう。
おばあさんの声は、校門の前に吹く風よりも、ずっとやわらかかった。
「うちはね、昔から歌舞伎や長唄の三味線に親しんできた家でね」
その言葉といっしょに、つむぎの頭の中に、古い座敷の景色が浮かんだ。
畳の部屋。低い机。大切にしまわれてきた譜面。壁ぎわに置かれた三味線。そこには、長い時間をかけて受け継がれてきた音が、静かに息づいているようだった。
小さなりゅうこう君は、その音を聞いていた。
まだ今よりずっと幼くて、目もまるくて、声も今よりたくさん出していたころのりゅうこう君。おばあさんが三味線を構えると、彼は畳の上にちょこんと座って、じっとその手元を見つめていた。
おばあさんの指が動く。バチが弦に触れる。
びん、と空気がふるえた。
「小さい頃から、あの子のそばには三味線の音があった」
おばあさんは、なつかしむように目を細めた。
でも、小学校に入ると、りゅうこう君の世界は少し変わった。
彼が夢中になったのは、三味線ではなくサッカーだった。
青空の下、すみみだ川の河川敷グラウンドを走る小さなりゅうこう君。胸には「TSジュニアFC」の文字。学校のクラブ活動ではなく、地域のサッカーチームだった。
ボールを追いかけるりゅうこう君は、今のように無口ではなかった。笑って、走って、仲間の声に反応して、また走る。
つむぎは、その姿を想像して、少しだけ胸がきゅっとなった。
今のりゅうこう君からは、そんなふうに思いっきり笑う姿が、なかなか想像できなかったからだ。
おばあさんの話は、そこで少しだけ重くなった。
「あの子が小学三年生の時、足を怪我してしまってね」
すみみだ川の河川敷グラウンド。試合中、ボールを追いかけていたりゅうこう君が転んだ。
それは、誰かが悪いわけではない。特別に大きな事故でもない。けれど、小さな子どもにとっては、十分すぎるほど大きな出来事だった。
日常生活には問題ない。歩くこともできる。学校にも行ける。
でも、前みたいにサッカーにはついていけなくなった。
仲間たちがグラウンドを走る。ボールを追う。声をかけ合う。
その少し離れたベンチに、りゅうこう君は一人で座っていた。
悔しいとも、寂しいとも言わなかった。ただ、じっと下を向いていた。
おばあさんは、そんなりゅうこう君に三味線を差し出した。
「弾いてみるかい?」
最初のりゅうこう君は、ただ無表情だった。
うれしそうでもなく、嫌そうでもなく、ただ、目の前に置かれた三味線を見ていた。
なんとなく、三味線を始めた。
けれど、ある日、りゅうこう君は動画の中で津軽三味線に出会った。
速いバチさばき。鋭く弾ける音。走るようなリズム。まるで、音そのものが地面を蹴って前へ進んでいくようだった。
りゅうこう君の目が、変わった。
口は閉じたままだった。けれど、その目だけは、音を追いかけていた。
「塞ぎ込んでいたあの子を、津軽三味線が救い出した」
それから、りゅうこう君は一人で調べた。ノートに書いた。動画を見た。楽譜を開いた。練習記録をつけた。
でも、津軽三味線の音は大きい。
家でも練習できる時間は限られている。思いきり弾ける場所は、なかなかない。
つむぎは、おばあさんの話を聞きながら、りゅうこう君がずっと一人で音を探していたことを知った。
「津軽三味線の仲間もいない」
おばあさんの言葉は、静かだった。
りゅうこう君は、ネットで津軽三味線の動画を見て、教本を開き、何度も同じ動きをまねした。
画面の中には、すごい奏者がいた。速い音。強い音。まっすぐ胸に飛びこんでくる音。
でも、画面の向こうの人は、りゅうこう君の音を聞いてくれない。
「張り合う相手もいない」
部屋の中で、りゅうこう君は一人、背中を向けて三味線を構えていた。
音は出る。弾けば、たしかに空気はふるえる。
けれど、うまくなったかどうかを一緒に喜ぶ相手がいない。悔しいと思える相手もいない。もっと弾きたいと思っても、音を出せる時間は限られている。
おばあさんの話は、そこで現在の校門前へ戻ってきた。
「だから、あの子はだんだん、言葉が少なくなった」
つむぎは、胸に手を当てた。
りゅうこう君は、何も感じていないわけじゃない。
無視していたわけでも、冷たかったわけでもない。
言葉にする前に、音が行き場をなくしていたのだ。
「音を出したいのに……場所がないんだ」
つむぎの声は、小さかった。けれど、その言葉は、はやりの心にまっすぐ届いた。
はやりは、ぎゅっと拳を握った。
「なら作るしかないジャン。あいつが思いっきりシャミれる場所を!」
その瞬間、つむぎにもわかった。
三味線クラブに必要なのは、仲間だけじゃない。
音を出していい場所。失敗しても、もう一回鳴らせる場所。誰かの音を聞いて、自分も弾きたいと思える場所。
りゅうこう君に必要だったのは、きっと、そんな場所だった。
おばあさんは、つむぎとはやりを見て、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「口下手な子だけど、よかったら誘ってあげておくれ。りゅうこう、お前からも素直に言いなさい」
その言葉に、つむぎとはやりは同時に後ろを振り向いた。
いつの間にか、りゅうこう君が立っていた。
深緑のTシャツ。少し乱れた黒髪。いつも通り、表情はあまり変わらない。
でも、逃げずにそこに立っていた。
はやりの顔が、ぱっと明るくなった。
「りゅうこう! いつでもWelcomeだよ!」
はやりらしい、まっすぐで、ちょっと勢いが強すぎる歓迎だった。
つむぎも、一歩前に出た。
「三味線クラブ、一緒に作ろう」
その言葉を言う時、つむぎの胸は少しだけ熱くなった。
仲間になってほしい。
それだけじゃない。
りゅうこう君の音を、ちゃんと聞きたい。りゅうこう君が思いきり弾ける場所を、一緒に作りたい。
りゅうこう君は、二人をじっと見た。
しばらく、何も言わなかった。
そして、短く言った。
「……練習場所は?」
つむぎとはやりは、固まった。
はやりの目が、だんだん大きくなる。
「シャビッ!……そこからジャン?」
勢いで仲間を集めることばかり考えていた二人は、ようやく気づいた。
三味線クラブには、仲間が必要。
でも、それだけでは足りない。
音を出せる場所がなければ、三味線クラブは始まらないのだ。
りゅうこう君の一言で、つむぎとはやりはもう一つの問題に気づいた。
練習場所がない。
そして、それ以前に――。
つむぎは、少し困った顔で言った。
「実は……わたしたち、まだ三味線も持ってないんです」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
三味線クラブを作りたい。仲間を集めたい。りゅうこう君にも入ってほしい。
そう思って走ってきたのに、自分たちの手元には、まだ三味線がなかった。
おばあさんは、つむぎを責めなかった。
ただ、やさしく笑って、手にしていた細長い三味線ケースを差し出した。
「よかったら、しばらくはこれを使いなさい」
つむぎとはやりは、思わず息をのんだ。
ケースは古かった。けれど、金具も角もきちんと手入れされていて、大切に使われてきたことが一目でわかった。
おばあさんは、ゆっくり説明した。
「長唄三味線の稽古用だけど、古いが大切に手入れされた三味線。音はちゃんと出るよ」
はやりの目が、きらきらと輝いた。
つむぎも、胸の奥がふわっと明るくなるのを感じた。
「え? 借りても……いいんですか?」
つむぎが聞くと、はやりはもう両手を握りしめていた。
「うおおお! 念願のマイシャミじゃん!!」
その瞬間、りゅうこう君がすかさず言った。
「あげない。貸すだけ」
はやりの勢いが、ぴたりと止まった。
「……はい。お借りしますジャン」
おばあさんは、そんな三人を見て、少し楽しそうに目を細めた。
「しばらくは使っていいから、練習場所探しとあわせて、自分に合う三味線を探しなさい」
自分に合う三味線。
つむぎは、その言葉を心の中でくり返した。
三味線にも、いろいろあるのだろうか。
音の大きさ。形。重さ。弾きやすさ。自分に合うものと、そうでないもの。
まだ何も知らない。だからこそ、知りたいと思った。
「自分に合う……三味線」
つむぎは、借りた三味線ケースを大切に抱えた。
こうして、私とはやりは、共用お稽古用三味線をお借りした。
場所も、楽器も、まだ借り物。
けれど、この音を続けたい気持ちだけは、もう借り物ではなかった。
翌日、つむぎとはやり、そしてりゅうこうは、さっそく三味線クラブの練習場所を探しはじめた。
まず向かったのは、職員室だった。
つむぎは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、担任の先生に頭を下げた。
「私達、三味線クラブの練習場所を探しています」
先生は少し驚いた顔をしたあと、すぐにやさしくうなずいた。
「三味線クラブ……本当に作るつもりなのね」
はやりは胸を張った。
「もちろんジャン! メンバーも集まりつつあるジャン!」
りゅうこうは何も言わず、少しだけ目をそらした。
先生は予定表を確認しながら言った。
「まず音楽室だけど……今は吹奏楽クラブが使っていて、空きがないのよ」
三人は音楽室をのぞいてみた。
中では、トランペットやクラリネット、打楽器の音が重なり、たくさんの生徒たちが練習していた。譜面台が並び、椅子も楽器もぎっしり。三味線を広げる場所など、とてもなさそうだった。
「シャビ~ん!! 音楽室、ぎゅうぎゅうジャン!」
はやりは両手を頭に当てて叫んだ。
次に向かったのは体育館。
しかし、そこではバスケットボール部とバレーの練習が同時に行われていた。ボールの跳ねる音、シューズの音、かけ声。体育館いっぱいに、すでに別の熱気が広がっていた。
「シャビ~ん!! 体育館もいっぱいジャン!」
はやりはまた叫んだ。
つむぎは少し困った顔で言った。
「三味線って、座って構える場所もいるし……ここだと危ないかも」
りゅうこうも静かにうなずいた。
「……音、混ざる」
次はグラウンド。
野球の練習。サッカーの練習。走る生徒たち。ボールを追う声。夕方の校庭は、思った以上ににぎやかだった。
はやりはそれでも、勢いよく空を指さした。
「こうなったら青空三味線!」
つむぎは苦笑いした。
「音が飛んでいっちゃうよ」
はやりは一瞬だけ考えたあと、ぐっと拳を握った。
「じゃあ、屋内で静かなところジャン!」
三人が最後にたどり着いたのは、図書室だった。
本棚が並び、窓からはやわらかい光が差し込んでいる。たしかに、空いているように見えた。
はやりは目を輝かせて、小声で言った。
「ここならガラガラじゃん……」
その瞬間、図書委員がすっと現れた。
「うるさいです!!」
「まだ弾いてないジャン!」
はやりは両手を上げて抗議した。
つむぎは小さく笑いながら、肩をすくめた。
「無理があるよ^^」
場所はあるようで、ない。
音を出せる場所は、ただ空いている場所とは違う。
つむぎはそのことを、少しずつ実感しはじめていた。
三人の場所探しは、まだ終わらなかった。
はやりは、あきらめるどころか、むしろ燃えていた。
「学校には、まだまだ部屋があるジャン! 可能性は無限大ジャン!」
そう言って、次に飛び込んだのはコンピューター室だった。
はやりは椅子に座るなり、パソコンを操作しはじめた。画面には、次々と三味線の動画が開かれていく。
津軽三味線の演奏。民謡の動画。プロ奏者の速弾き。気づけば、いくつもの画面から三味線の音が重なって流れはじめた。
「ネット使い放題ジャン!」
はやりは目を輝かせた。
しかし、その横で科学系の先生が顔を引きつらせていた。
「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ君たちは出入り禁止!!」
つむぎはあわててパソコンの音量を下げた。
「はやり、同時に開きすぎだよ……!」
りゅうこうは無表情でひと言。
「……混線」
次に向かったのは保健室だった。
清潔なベッド、白いカーテン、薬品棚。静かで、落ち着いた空間だった。
はやりは胸を張った。
「ココならシャミ熱出しても怪我しても大丈夫ジャン!」
保健先生はにっこり笑った。
「先ず、アタマの治療が必要ね……」
りゅうこうは小さくつぶやいた。
「手遅れだ・・」
「聞こえてるジャン!」
はやりが振り向いたが、りゅうこうはもういつもの無表情に戻っていた。
さらに三人は理科室へ向かった。
理科室には実験道具が並び、ビーカーやフラスコが光っていた。
はやりはどこからか白衣を羽織り、三味線を構えるふりをした。
「シャミエンス! なんちゃって」
その後ろで、化学系の先生がワナワナと震えていた。
つむぎは顔を赤くして、そっと言った。
「しゃれになってない」
三人は、ついに職員室前の廊下に戻ってきた。
はやりはその場にしゃがみこみ、頭を抱えた。
「シャバッ!! この学校にはシャミれる場所が無いジャン!」
つむぎも肩を落とした。
練習したい。 でも、音を出せる場所がない。
りゅうこうは黙ったまま、廊下の床を見つめていた。
つむぎはその横顔を見て、胸の奥が少し痛くなった。
りゅうこう君は、ずっとこうだったのかもしれない。
弾きたいのに、弾ける場所がない。 音を出したいのに、出していい場所がない。
つむぎは、小さく息を吸った。
「もう一回、先生に相談してみよう」
その時だった。
廊下の向こうから、丹仁野先生が歩いてきた。
「あ、あなた達。朗報よ」
三人は顔を上げた。
丹仁野先生は、やさしく微笑んで言った。
「吹奏楽顧問の先生がお話があるそうよ」
はやりの目が、ぱっと光った。
「これは……物語が動く予感ジャン!」
三人が音楽室へ向かうと、そこには吹奏楽クラブの生徒たちが並んでいた。
長い黒髪。黒いTシャツ。黒いズボン。
まるで本番前の演奏者たちのように、静かにこちらを見ている。
その中央に立っていたのが、吹奏楽顧問の先生だった。
白髪のベートーヴェンのような髪。黒いスーツ。赤いマフラー。
学校の先生というより、どこかのホールからそのまま歩いてきた音楽家のようだった。
顧問は腕を組み、低い声で言った。
「音楽室は、みんなが音楽で使えるべき場所です」
はやりはごくりとつばを飲み込んだ。
つむぎも背筋を伸ばした。
りゅうこうだけは、いつも通り、表情を変えなかった。
顧問は続けた。
「ただし、スペースに限りがあるため、誰でも自由に使える場所では無いです」
その言葉は正しかった。
音楽室は、ただ空いている部屋ではない。
ピアノがあり、譜面台があり、楽器があり、音を出すための場所だった。
だからこそ、誰かが使うなら、誰かが使えなくなる。
つむぎは、ようやくその重さを感じた。
「明日の放課後17時、ここで演奏してみてください」
顧問の声が、音楽室に静かに響いた。
「もし心が震えたら、練習枠を半分譲りましょう」
はやりの目が燃えた。
「場所取りバトルじゃん!!」
つむぎはあわてて言った。
「バトルっていうか、試験みたいなものだと思うけど……」
はやりは拳を握ったまま、ぐっと前を向いていた。
「どっちでも同じジャン! 勝てば音楽室ゲットジャン!」
その横で、りゅうこうがぼそっと言った。
「チリたら。」
つむぎとはやりは同時にりゅうこうを見た。
「今の、いけるって意味?」
はやりが聞いた。
りゅうこうは答えない。
ただ、ほんの少しだけ、目を細めた。
つむぎの胸に、希望が灯った。
私とはやりは未経験。 それどころか、超初心者。
でも、りゅうこう君のあの演奏があれば、絶対大丈夫。
はやりは大きく拳を上げた。
つむぎも、小さく拳を握った。
りゅうこうは無表情のままだった。
けれど、三人は確かに、同じ場所へ向かって立っていた。
翌日放課後の音楽室。
空気は、昨日よりもずっと重かった。
吹奏楽クラブの生徒たちが、壁際に並んで見学している。
譜面台の向こう。打楽器の前。窓際。
黒いTシャツの生徒たちの視線が、つむぎとはやりに集まっていた。
音楽室の中央には、祖母から借りた三味線が一棹だけ置かれている。
つむぎとはやりは、その前に立っていた。
でも、そこにいるはずの人がいない。
りゅうこうの姿が、どこにもない。
つむぎの指先が、少し震えた。
「どうしよう。私達、超初心者なのに」
はやりはぐっと拳を握った。
声は強かった。
でも、その肩は少しだけ震えていた。
「りゅうこうは絶対来るジャン!!」
つむぎはうなずこうとした。
でも、時計の音が耳に入った。
カチッ。
音楽室の壁にかかった時計の長い針が、まっすぐ十二を指す。
短い針は、五。
デジタル表示は、17:00。
約束の時間だった。
顧問の先生が、ゆっくりと前に出た。
黒いスーツに赤いマフラー。白い髪が、夕方の光を受けて少しだけ銀色に見えた。
「時間です」
音楽室が、静かになった。
顧問は、つむぎとはやりをまっすぐ見た。
「私は、あなた達二人の演奏でも構いませんよ?」
それは冷たい言葉ではなかった。
逃げ道をふさぐ言葉でもなかった。
ただ、約束の時間が来たという事実だった。
つむぎは三味線を見た。
まだ自分たちは、まともに弾けない。
構え方だって、はっきりわかっていない。
それでも、ここで何もしなければ、音楽室は手に入らない。
はやりが一歩前に出た。
その手は震えていた。
けれど、目は逃げていなかった。
はやりは三味線を抱えた。
「やってやろうジャン!」
その声は、少しだけ裏返っていた。
それでも、音楽室の真ん中に、はっきり響いた。
はやりは、三味線を構えた。
いや、構えたつもりだった。
胴の位置も、棹の角度も、足の開き方も、どこかおかしい。
それは、今日初めて三味線に触れた子が、気合いだけでどうにかしようとしている構えだった。
つむぎは思わず口を開きかけた。
教えてあげたい。
でも、どう言えばいいのかわからない。
自分だって、まだ何もわかっていない。
だから、見守るしかなかった。
はやりは大きく息を吸い込んだ。
「シャミしか勝たん!!」
その気合いだけは、音楽室中に響いた。
そして次の瞬間。
ベンッ!
バンッ!
ギャン!
三味線から、思っていたのとはまるで違う音が飛び出した。
音が暴れた。
跳ねた。
転んだ。
どこかへ走っていきそうなほど、まとまりのない音だった。
吹奏楽クラブの生徒たちが、思わずびくっと肩を跳ねさせた。
けれど、顧問の先生だけは動かなかった。
腕を組んだまま、眉ひとつ動かさない。
まるで、どんな音もこれまで聴いてきたと言わんばかりの顔だった。
はやりは、汗だくになっていた。
それでも、三味線を離さなかった。
顔は真っ赤。息は上がっている。
でも、目だけはまだ燃えていた。
「……心、震えた?」
音楽室に、妙な沈黙が落ちた。
顧問の先生は少しだけ間を置いて、静かに答えた。
「別の意味で、少し」
はやりの顔が、一瞬で固まった。
つむぎは、思わず目をそらした。
吹奏楽クラブの生徒たちは、笑っていいのか、いけないのか、困った顔をしている。
それでも、はやりはすぐに立て直した。
片目をつぶり、舌を少し出して、指を頬に当てる。
「シャビ♡」
つむぎは、力なく笑った。
はやりは失敗した。
でも、逃げなかった。
初めて触った三味線を、震える手で抱えて、それでも前に出た。
それは、上手い演奏ではなかった。
けれど、つむぎにはわかった。
はやりの音は、めちゃくちゃだった。
でも、その気持ちは、ちゃんと鳴っていた。
はやりの音が、音楽室に大きく暴れて消えた。
そのあとに残ったのは、少し気まずい沈黙だった。
吹奏楽クラブの生徒たちは、笑っていいのか、まじめに見守るべきなのか、判断に困った顔をしている。
顧問の先生は、腕を組んだまま静かにつむぎたちを見つめた。
「無理せず、ここで辞めても良いが、どうしますか?」
その言葉は、責めるものではなかった。
むしろ、これ以上つらい思いをしなくてもいい、というやさしさにも聞こえた。
つむぎは、借りた三味線を見た。
まだ自分の三味線ではない。
構え方だって、ちゃんと身についているわけではない。
手は少し震えていた。
けれど、つむぎは三味線を抱えた。
その瞬間、胸の奥に、いくつもの記憶が浮かんだ。
はじめて三味線の音を聴いた音楽室。
はじめて一音を鳴らした時の、指先に残った震え。
はやりと一緒に、三味線クラブの仲間を探して走り回ったこと。
うまくいかなくて、何度も落ち込んだこと。
それでも、はやりがいつも明るく笑ってくれたこと。
そして、りゅうこうのおばあちゃんが、大切な三味線を貸してくれたこと。
先生、はやり、おばあちゃん。
みんなのおかげで、ようやくここまで来られた。
つむぎは、ぎゅっと息を吸った。
もう、逃げたくない。
音楽が苦手だった。
失敗するのが怖かった。
人前で音を出すのも怖かった。
でも、三味線の音を知ってしまった。
その音が少なくなっていることも、知ってしまった。
だから、ここで終わりにはしたくなかった。
つむぎは、顧問の先生をまっすぐ見た。
「やります!」
声は少し震えていた。
それでも、はっきり言えた。
「この音を……なくしたくないんです」
音楽室の空気が、少しだけ変わった。
はやりが、胸の前で両手を握りしめた。
顧問の先生は、静かにつむぎを見つめていた。
その目は、もう試すだけの目ではなかった。
つむぎの中にある小さな火を、確かめるような目だった。
つむぎは目を閉じた。
音楽室の中にいるたくさんの人の気配が、急に遠くなった。
吹奏楽クラブの生徒たちの視線。
顧問の先生の静かなまなざし。
はやりの祈るような気配。
その全部を感じながら、つむぎは三味線を抱えた。
うまく弾ける自信はない。
指の置き方も、バチの角度も、正しいかどうかまだわからない。
それでも、音を出したい。
この音を、ちゃんと残したい。
つむぎは、そっと一音を鳴らした。
大きな音ではなかった。
りゅうこうのように、鋭く走る音でもなかった。
けれど、その音は、静かに音楽室へ広がった。
やさしい波紋のように。
水面に落ちた小さな光のように。
誰かを驚かせるための音ではない。
誰かに勝つための音でもない。
ただ、つむぎの中にある「続けたい」という気持ちが、そっと形になった音だった。
顧問の先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。
厳しかった目元が、わずかにやわらいだ。
つむぎは目を開けた。
まだ手は震えている。
でも、さっきより怖くなかった。
「うまくは弾けません」
つむぎは、正直に言った。
「でも……続けたいんです」
顧問の先生は、しばらく黙っていた。
音楽室の隅で、吹奏楽クラブの生徒たちも静かに見守っている。
やがて先生は、ゆっくり口を開いた。
「あなたの想いは、確かに受け取りました」
つむぎの胸が、少しだけ熱くなった。
けれど、先生の言葉はそこで終わらなかった。
「さて……」
視線が、音楽室の一角へ向いた。
そこには、空いたままの場所があった。
りゅうこうがいるはずだった場所。
顧問の先生の声が、静かに響いた。
「気持ちはわかりました。でも、約束の時間を守れないようでは……」
つむぎは、その空席を見た。
ここで終わってしまうのだろうか。
りゅうこう君にも、ここで弾いてほしい。
そう願った瞬間、音楽室の空気が、かすかに動いた。
ガラッ。
音楽室のドアが開いた。
その音は、思ったより大きく響いた。
つむぎも、はやりも、顧問の先生も、吹奏楽クラブの生徒たちも、一斉に入口を見た。
夕方の廊下から差し込む光の中に、りゅうこうが立っていた。
その腕には、三味線があった。
りゅうこうは息を切らしていなかった。
焦った顔もしていない。
いつものように、少し眠そうで、何を考えているのかわからない顔をしている。
けれど、三味線を持つ手だけは、しっかりしていた。
つむぎの胸が、ぱっと明るくなった。
「りゅうこう君……!」
はやりは一瞬、安心した顔になった。
けれど次の瞬間、怒りが爆発した。
「遅いジャン!?」
つむぎも、思わず声を重ねた。
「何してたの??」
りゅうこうは二人を見た。
そして、いつもの低い声で短く答えた。
「……コソ練」
音楽室が、一瞬だけ止まった。
はやりの目が大きく開いた。
「コソ練……?」
りゅうこうはうなずかない。
説明もしない。
ただ、三味線を抱えたまま、そこに立っている。
けれど、その言葉だけで十分だった。
逃げたわけじゃなかった。
間に合わなかったわけでもなかった。
りゅうこうは、今日のために、ひとりで練習していたのだ。
はやりの顔が、みるみる赤くなった。
安心と怒りと照れが、全部いっぺんに押し寄せてきたような顔だった。
「そういう事は始めから言えジャン!!」
はやりは、りゅうこうを指さして叫んだ。
りゅうこうは、何も言わない。
つむぎは、思わず笑ってしまった。
音楽室の緊張が、少しだけほどけた。
顧問の先生は腕を組み、りゅうこうを見つめた。
その表情は厳しかった。
けれど、どこかで、次の音を待っているようにも見えた。
りゅうこうが現れたことで、つむぎとはやりの顔に希望が戻った。
けれど、顧問の先生はすぐには演奏を許さなかった。
先生は、りゅうこうをまっすぐ見た。
「限られた時間で、少しでも向上を目指す。その心は素晴らしい」
その声は、厳しいだけではなかった。
コソ練をしていたりゅうこうの努力を、きちんと認める声だった。
りゅうこうは黙って聞いていた。
はやりも、つむぎも、息をのんで見守っている。
先生は続けた。
「ですが、音楽室はみんなの場所です」
その言葉に、つむぎは背筋を伸ばした。
音楽室は、三味線クラブだけの場所ではない。
吹奏楽クラブも使う。
ほかの授業でも使う。
この部屋にある時間は、みんなで分け合うものだった。
「時間を守れないようでは、みんなが使えなくなる事もあるので、覚えておいてください」
それは、意地悪ではなかった。
三味線クラブを追い返すための言葉でもなかった。
これから一緒に音楽室を使うかもしれない相手として、必要な約束を伝えているのだ。
りゅうこうは、三味線を持ったまま、一歩前に出た。
そして、深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
音楽室が静かになった。
りゅうこうの声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
つむぎは、少し驚いた。
りゅうこうが、こんなにきちんと言葉にして謝るところを、初めて見た気がした。
顧問の先生は、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「わかれば良いのです」
先生は手を差し出すようにして言った。
「では、演奏を聞かせてください」
りゅうこうはゆっくり顔を上げた。
その表情は、いつも通り静かだった。
けれど、目だけは少し違っていた。
三味線を弾く場所を、ようやくもらえた。
その重さを、ちゃんと受け止めている目だった。
りゅうこうは小さく答えた。
「……はい」
はやりは両手を胸の前で握りしめた。
つむぎも、息を止めるように見守った。
いよいよ、りゅうこうの音が、音楽室に響く。
りゅうこうは、静かに三味線を構えた。
さっきまで、はやりが抱えていた三味線とは、同じ楽器のはずだった。
けれど、りゅうこうの手に渡った瞬間、空気が変わった。
棹を支える左手。
胴の前に置かれた右手。
バチの握り。
どれも、迷いがなかった。
つむぎは、思わず息をのんだ。
音が出る前から、もう音が聴こえてくるような気がした。
りゅうこうの指先が、わずかに動く。
音楽室の中にいる誰もが、その小さな動きを見つめていた。
はやりは拳を握った。
我慢しようとして、でも我慢できなかった。
「いけェ!! シャミれジャン! りゅうこう!!」
「は、はやりちゃん、しーっ!」
つむぎはあわててはやりをなだめた。
でも、はやりの気持ちはわかった。
がんばれ。
鳴らして。
ここで、りゅうこう君の音を聴かせて。
その気持ちは、つむぎの中にもあった。
りゅうこうは、何も言わなかった。
ただ、静かにバチを構えた。
そして、振り下ろす。
一音。
その音は、はやりの音とも、つむぎの音とも違っていた。
鋭くて、深い。
強いのに、乱れていない。
走るようで、ちゃんと立っている。
音の波紋が、音楽室いっぱいに広がった。
つむぎの胸の奥が、震えた。
吹奏楽クラブの生徒たちの表情が変わる。
さっきまで見学していた目が、演奏を聴く目に変わっていく。
顧問の先生も、腕を組んだまま、じっと聴いていた。
そのまなざしは、もう試験官のものではなかった。
一人の音楽家が、ひとつの音を確かめる目だった。
りゅうこうは、静かに次の音へ向かった。
りゅうこうの左手が、棹の上をすべるように動いた。
細かい指の動き。
押さえる場所。
離す瞬間。
そのひとつひとつが、音を前へ走らせていた。
つむぎには、まだその仕組みはわからない。
でも、わかったことがある。
りゅうこうの音は、ただ大きいだけではない。
速いだけでもない。
音の中に、道がある。
バチが弦へ向かう。
正しく握られたバチが、迷いなく振り下ろされる。
一音一音が、音楽室の空気を変えていく。
吹奏楽顧問の先生の口元が、ほんの少しだけ動いた。
それは、笑顔と呼ぶには小さすぎる変化だった。
けれど、確かに、微笑んでいた。
つむぎとはやりは目を閉じた。
金色の波紋のような音が、二人のまわりを流れていく。
はやりはいつもなら、すぐに何か言う。
けれど今は、黙っていた。
つむぎも、言葉が出なかった。
ただ、音に触れていた。
りゅうこうの音は、どこかを走っているようだった。
サッカーをしていた頃の、りゅうこうの足。
ひとりで練習していた部屋。
音を出せる場所がなくて、ずっとしまいこんでいた気持ち。
それらが全部、三味線の音になって、音楽室の中を走っていた。
最後の一音。
りゅうこうは静かに弾き切った。
音が消えたあとも、余韻だけが残っていた。
誰もすぐには動けなかった。
りゅうこうは顔を上げた。
いつもの無表情に見える。
でも、その口元は、ほんの少しだけやわらかかった。
そして、短く言った。
「……チリたら」
その言葉の意味は、まだつむぎには全部わからない。
けれど今は、それでよかった。
りゅうこうの音が、ここに確かに鳴った。
それだけで、音楽室の空気は、もうさっきまでとは違っていた。
りゅうこうの最後の音が、音楽室の中で静かに消えていった。
けれど、その余韻はまだ残っていた。
窓から差し込む夕方の光。譜面台の影。吹奏楽クラブの生徒たちの息づかい。
誰も、すぐには声を出せなかった。
つむぎは、胸の前で両手を握りしめていた。
はやりも、いつものように飛び跳ねることなく、じっと顧問の先生を見ている。
りゅうこうは、三味線を抱えたまま、いつも通り無表情だった。
でも、つむぎにはわかった。
その音には、りゅうこう君の全部が入っていた。
顧問の先生が、静かに口を開いた。
「まだ、クラブとしては未完成です」
つむぎの胸が、きゅっと縮んだ。
はやりの肩も、ぴくりと動いた。
りゅうこうだけは、表情を変えない。
顧問の先生の言葉は、正しかった。
三味線クラブを作りたい。
音楽室を使いたい。
そう願って、ここまで来た。
でも、まだ正式なクラブとしては足りないものがある。
顧問の先生は、それをわかっている。
わかったうえで、あえて言葉を選んでいるようだった。
音楽室が静まり返る。
つむぎは、息を止めた。
はやりも、拳を握りしめた。
そして、先生は続けた。
「でも……心は震えました」
その一言で、つむぎの目に涙がにじんだ。
はやりの顔がぱっと明るくなる。
りゅうこうは、ほんの少しだけ視線を落とした。
顧問の先生は、静かに右手を上げた。
「三味線クラブの未来、音楽の未来のために」
その声は、音楽室全体に届いた。
「音楽室の練習枠、半分譲りましょう」
つむぎは、一瞬その言葉の意味がわからなかった。
でも、はやりが先に反応した。
「……え?」
そして次の瞬間、はやりの顔が弾けた。
つむぎの胸にも、ようやく実感が広がっていく。
場所ができた。
音を出せる場所が。
三人で集まれる場所が。
三味線クラブの、小さな最初の居場所が。
はやりが、音楽室の真ん中で大きく跳ねた。
「やったじゃん!!!」
その声は、さっきまでの緊張を一気に吹き飛ばした。
吹奏楽クラブの生徒たちが、少し驚いたように目を丸くする。
でも、誰も怒らなかった。
顧問の先生も、ほんの少しだけ目を細めていた。
つむぎは、胸の前で両手を握ったまま、笑った。
涙がにじんで、視界が少しぼやけている。
「これで……シャミれる!」
その言葉を口にした瞬間、つむぎの中で何かがほどけた。
音楽室を探して、あちこち断られて。
図書室では怒られて。
理科室では先生を震え上がらせて。
保健室では頭の治療をすすめられて。
それでも、あきらめなかった。
はやりは失敗しても前に出た。
つむぎも、怖くても音を鳴らした。
そして、りゅうこうが最後に音を届けた。
りゅうこうは、いつものように静かに立っていた。
けれど、その口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
「……チリたら」
はやりが、すかさず指を立てた。
「チリたら! いただきジャン!」
りゅうこうは、何も言わなかった。
でも、嫌そうではなかった。
つむぎは、りゅうこうを見た。
「りゅうこう君と、音を出せる場所ができたんだね」
りゅうこうは、少しだけ目を伏せた。
それから、ほんの小さくうなずいた。
たったそれだけだった。
でも、つむぎには十分だった。
この場所は、まだ借りた場所だ。
この三味線も、まだ借りた三味線だ。
正式なクラブになるには、まだ足りないものもある。
それでも、今ここに、三人の音が集まった。
借りた三味線で、借りた音楽室を勝ち取った。
でも、この気持ちは、もう借り物じゃない。
勝利の余韻が、まだ音楽室に残っていた。
はやりは目を輝かせ、つむぎは涙をぬぐい、りゅうこうは静かに三味線を抱えている。
その時、顧問の先生が静かに言った。
「喜ぶのはまだ早い」
三人の動きが止まった。
先生は、腕を組んだまま続けた。
「音楽室の利用は、正式なクラブのみ許可されます」
はやりの笑顔が、ぴたりと固まった。
つむぎも、胸の奥がざわつくのを感じた。
正式なクラブ。
その言葉は、ここまで来た三人の前に、もう一つの壁として立ちはだかった。
顧問の先生の顔が、真剣になる。
「正式なクラブ申請には、あと一人必要です」
音楽室が、再び静かになった。
あと一人。
つむぎとはやりは、その言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。
やっと場所を手に入れたと思った。
やっと三人で音を出せると思った。
でも、クラブとして認められるには、まだ足りない。
三人は、その場で固まった。
はやりの目がぐるぐる回る。
つむぎは口を開いたまま動けない。
りゅうこうだけは、いつも通り無表情だった。
はやりは、次の瞬間、顧問の先生に向かって両手をすり合わせた。
「吹奏楽クラブから御一人お借りしたり……出来ないジャンすか?」
顧問の先生は、静かに見つめ返した。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
はやりは、しゅんと肩を落とす。
つむぎは、一歩前に出た。
胸の前で手をぎゅっと握る。
「あと一人なんです!」
声は震えていた。
でも、ちゃんと前を向いていた。
「チカラをお借りできないでしょうか?」
顧問の先生は、しばらく黙っていた。
その目は、つむぎたちを試しているようでもあり、何かを思い出しているようでもあった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
顧問の先生は、少しだけ表情をやわらげた。
「これもご縁ですね。一人、推薦したい子がいます」
はやりの目が、一瞬で光った。
つむぎも、思わず身を乗り出す。
「いるんジャン?? シャミれる子!?」
はやりの声が、音楽室に弾んだ。
りゅうこうは、となりで無表情のまま立っている。
けれど、ほんの少しだけ、視線が顧問の先生の方へ動いた。
顧問の先生は、ゆっくり名前を口にした。
「6年3組の、かける君です」
かける君。
その響きに、はやりはすぐに反応した。
「6年生!? 先輩ジャン!」
つむぎも、胸が少し高鳴った。
上級生。
しかも、顧問の先生が推薦する人。
それだけで、とても頼もしく聞こえた。
先生は続けた。
「去年まで吹奏楽クラブでピアノを弾いてくれていました。でも、突然辞めてしまって」
つむぎは、少し首をかしげた。
吹奏楽クラブでピアノ。
音楽が得意な先輩なのだろうか。
それなのに、突然辞めた。
その理由は、まだわからない。
「今は、お兄さんから譲り受けた三味線を弾いているそうです」
その言葉に、はやりが大きく反応した。
「また経験者! しかも先輩ジャン!」
つむぎの胸にも、希望がふくらんだ。
「上級生……頼もしいかも」
りゅうこうは、何も言わない。
ただ、少しだけ目を細めた。
かける君。
6年3組。
ピアノを辞めて、今は三味線を弾いている先輩。
つむぎの中で、まだ見ぬ四人目の姿が、少しずつ形になっていく。
けれどその時、はやりは完全に別の方向へ燃えていた。
「よっしゃ! 4人目のメンバー、ゲットしに行くジャン!」
つむぎは小さくうなずいた。
りゅうこうも、何も言わずに歩き出す。
こうして三人は、6年3組へ向かうことになった。
6年3組の前に、つむぎ、はやり、りゅうこうの三人が立っていた。
教室のプレートには、はっきりと「6年3組」と書かれている。
つむぎは、少し緊張していた。
四年生の自分たちが、六年生の教室へ行く。
それだけでも、なんだか別の世界の入口に立っているような気がした。
はやりは、そんな緊張を吹き飛ばすように拳を上げた。
「よっしゃ! 4人目のメンバー、ゲットしに行くジャン!」
つむぎは苦笑いした。
「いきなり勧誘できるかな……」
りゅうこうは、何も言わない。
その時だった。
教室の中から、ものすごい音がした。
ドカッ。
バキッ。
そして、威勢のいい声が響く。
「てやんでい! 一昨日来やがれ! すっとこどっこい!」
つむぎとはやりは、同時に目を見開いた。
次の瞬間、教室の中から男子生徒が廊下へ転がり出てきた。
「うわあああ!」
もちろん、怪我をしているわけではない。
漫画みたいにごろごろ転がり、最後はぺたんと廊下に座り込む。
はやりは、両手を顔の横に上げて叫んだ。
「シャビ!? 6年生にもなると男子が飛んで来るジャン?」
つむぎは、あわてて首を振った。
「そんなわけないって」
りゅうこうは、無言のまま教室の奥を見ていた。
つむぎも、はやりも、ゆっくり視線を向ける。
教室の中。
逆光の中に、一人の人影が立っていた。
高い位置で揺れるポニーテール。
すらりとした立ち姿。
こちらを見ているのか、見ていないのかもわからない、強烈な気配。
つむぎの背中に、ぞくっとしたものが走った。
はやりも、さすがに言葉を失っている。
りゅうこうだけが、小さく息を吐いた。
かける君。
まだ顔もはっきり見えない。
でも、ただ者ではないことだけは、三人にもはっきりわかった。
シャミる!次回予告。
音楽室の練習枠を勝ち取ったつむぎたち。
けれど、正式な三味線クラブになるためには、あと一人の仲間が必要だった。
そこで名前が挙がったのは、6年3組のかける先輩。
しかし、その教室の前で待っていたのは、あまりにも予想外の光景だった。
はやりは、銭形平次のような勢いで指を突き出す。
「てえへんだ、てえへんだ!! 男子が飛んできたジャン!」
りゅうこうは、いつも通り低くつぶやく。
「……弾けろ」
教室の奥から響く、威勢のいい声。
「てやんでい! 一昨日来やがれ! すっとこどっこい!」
逆光の中に立つポニーテールのシルエット。
つむぎは、胸を高鳴らせながら見つめる。
「かける先輩が、ついに登場……!」
そして、次に待っているのは、もう一つの大切なテーマ。
「そして私達の三味線探し。」
まだ、つむぎとはやりは自分の三味線を持っていない。
第3話で手に入れたのは、音を出せる場所。
でも、自分たちの音を育てるには、いつか自分に合う三味線と出会わなければならない。
かける先輩は、鋭い目でこちらを見た。
強く、まっすぐ、少し乱暴で、でもどこか人を引きつける声で叫ぶ。
「次回も! 絶対見てくれよな!!」
次回第4話。
天神!!かける先輩登場。
三味線クラブは、いよいよ四人目の仲間へ向かって走り出す。

